江戸城が燃えたのは、3月20日、小石川新鷹匠町から出火した火事によります。
【竹橋門内、北の丸がまず焼失】
江戸城では、まず竹橋門内にあった天樹院の屋敷が炎上しました。天樹院とは、2代将軍秀忠の長女の千姫のことです。
その後、将軍家綱の弟の徳川綱重と徳川綱吉の屋敷も全焼させました。
江戸城が黒煙に包まれ危なくなってくると、将軍を東叡山に移そうという議論が盛んになりました。
この時、保科正之は
「本丸にひがかった場合は、西の丸にうつり、西の丸がまた焼けたら本丸の焼け跡に陣屋をたてるべきである。東叡山などに立ち退くなどはもってのほかである」としかりつけたそうです。
【天守も焼失】
江戸城の天守に火がうつったのは、正午から午後1時ごろでした。
江戸城の天守は三度建てられていますが、家光の建てた天守は、五層五階地下一階で、棟までの高さが44.8メートル石垣の高さは12.7メートルありました。この天守には金の鯱があげられていました。また、屋根は銅板瓦で葺かれ、壁三分の二には黒く化学処理を銅版が貼られていました。これらは火災を防ぐ配慮と考えられています。
このように防火性に優れていた天守ですが、天守の二層目の北西の窓がどうしたわけか開いて、そこから火を吸い込んで炎上したと言われています。
上写真は現代の天守台、下写真は、焼失した後に天守の役割を果たした富士見櫓
【将軍家綱西の丸に避難】
本丸と二の丸にも火がついたので、午後3時ごろ、ついに将軍家綱は西の丸に動座することなりました。
この西の丸への移動の際に、松平伊豆守信綱は、表御殿を良く知らない大奥の女中たちが迷わないように、各部屋の畳を一畳づつ裏返して目印としたそうです。そのため、女中たちはそれをたどって、無事に本丸を脱出したといわれています。やがて、西の丸にも黒煙がおおいかかり、いまにも危うくみえたので、将軍家綱以下は庭に出ました。
井伊直孝は井伊家の屋敷に移るよう進言し、松平信綱も東叡山に入ってしばらく様子を見ては勧めたそうです。
しかし、阿部豊後守忠秋はあくまでも出城説に反対しました。
そして、家綱も、出城に反対したので、江戸城からでるのはとりやめになったと言われています。

