【明暦の大火犠牲者慰霊の寺】
明暦の大火で亡くなった人は、「本所回向院記」では10万8千人とされているそうです。
この亡くなった人たちの慰霊のために建立されたのが両国の「回向院」です。
回向院のHPでは、次のようにかかれています。「この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。」
一方、黒木喬氏著の「明暦の大火」では、保科正之の発案だとしています。
保科正之が、4代将軍家綱の代参で芝の増上寺におまいりした帰途、京橋・中橋の通りにに出て、焼死体が貴賎男女の別なく積み重なっている光景に驚きました。
家臣に調べさせると、浅草門の近辺まで同じような光景との報告でした。
保科正之は、さっそく登城して、大老の井伊直孝や老中たちに話しをし、「死骸を1ケ所に集め埋葬するようにしたい」と提案しました。
井伊大老や老中たちは、その意見に賛成し、死体を収容し、当寺牛島新田と呼ばれていた、現在の回向院の地に掘られた二十間四方( 別の資料によると五十間四方と書いたものもあります)の大きな穴に埋葬しました。
その上に、無縁塚を築き、時の寺社奉行松平勝隆は、2月26日から増上寺の23世遵誉貴屋に7日間の法要を盛大に実施させたそうです。
埋葬塚の上には金銅の阿弥陀如来像安置され、念仏堂や庫裏も整備されたそうです。
回向院は、埋葬者の宗派が様々であっため、最初、諸宗山回向院無縁寺といわれましたが、その後、増上寺の末に組み込まれて国豊山(こくほうざん)と改められたそうですが、現在の回向院の山門脇には諸宗山と書かれています。(上の写真の左下の碑に諸宗山と刻まれています)
【明暦の大火供養塔】
回向院境内には、明暦の大火の供養塔が建てられています。 本堂東側で、馬頭観音堂の南側の墓碑の一群の中でひときわ大きな供養塔です。
この供養塔は正式には「石造明暦大火横死者等供養塔」といい、東京都の有形文化財に指定されています。
東京都教育委員会の説明板には次のように書かれています。
「明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高3・05m、延宝3年(1675)頃建立された。願主は回向院第2世住持信誉貞存」
この供養塔の銘文は、次のように書かれています。
一万日数 三界万霊六親眷属七世父母
奉回向 明暦三丁酉孟春十八日十九日 為焚焼溺水諸精霊等贈進仏果
別時念仏 蠢蠢群生有情非情悉皆成仏

