その一つが、定火消(じょうびけし)の制定です。今日は、定火消について書いていきます。
【定火消は旗本が任命された】
明暦の大火の翌年の万治元年(1658)9月に、定火消が設置されました。
旗本4名が定火消役を命じられ、御茶ノ水、小石川伝通院前、麹町半蔵門外、飯田町に火消屋敷が設置された。
これらの火消屋敷がすべて江戸城北西部に置かれているのは、えどの火災が北西の季節風の激しく吹く冬季に多発していたことに関係しています。この地域から出火した場合、江戸全域が風下となって大火に発展する危険が大きく、江戸城が危険にさらされることとなるからです。
定火消役は、それぞれ与力6名と同心30名が付属され、火消人足を抱えるための役料300人扶持が給されました。
定火消は、火事羽織を着て騎馬に乗り出役しました。与力は騎馬で、同心は徒歩でこれに従いました。
実際に消火活動にあったたのは、臥煙と呼ばれる火消人足で、彼らは屋敷内の臥煙部屋と呼ばれる大部屋に寝起きしていました。夜寝るときには、細い丸太棒を枕として寝て、火災が起こると不寝番丸太棒の端を槌でたたいて起こしたといわれています。
臥煙は真冬でも法被一枚で駆け回り、全身の彫り物を自慢にしていました。
また、火災のない時には、商家をまわって銭緡(ぜにさし)の押し売りを行い、決して評判の良いものではありませんでした。
上の写真は消防博物館に掲示されている「武家火消の図」です。左が火事に出動する定火消です。
【10組の定火消】
その後、定火消は万治2年に6組、万治3年に8組、寛文2年に10組、元禄8年には15組になりました。
そして宝永元年には、御茶ノ水、伝通院前(のちに小川町)、麹町半蔵門外、飯田町、駿河台、八代州河岸、市谷佐内坂、赤坂御門外、溜池上、幸橋外(のち四谷御門)の10組となりました。
宝永元年(1704)以降は、幕末まで10組で活動を行いました。そのため、定火消しは「十人火消」とも呼ばれました。
火消屋敷は、約3000坪の広さを持ち、高さ5丈(約15メートル)の火の見櫓が設置されていました。
定火消の火の見櫓には、太鼓と半鐘が備え付けられていました。
火の見櫓のなかで、定火消の火の見櫓が最も格式が高く、定火消の太鼓が鳴らない限り、他の火の見櫓が火事を発見しても、半鐘を鳴らすことはできませんでした。
上の写真は、消防博物館に展示されている定火消の火の見櫓の模型です。
消防博物館は、東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」2番出口直結しています。