今日は、大名火消について書いていきます。
江戸時代初期には大火の時には、老中が老中奉書により大名に消火を命じました。これが奉書火消と呼ばれるものです。
消防博物館には、老中奉書が展示されていました。
この奉書には次のように書かれています。、
小石川火事の節
松平伊豆守殿
大久保加賀守
阿部豊後守
貞享二年丑十二月二十日 戸田山城守
火事出来風列候間
早々罷出可消候被
仰出候可被得其意候
以上
十二月二十日 大久保加賀守
阿部豊後守
戸田山城守
松平伊豆守殿
しかし、これだと、火事が起きたときに出動を要請するため、迅速に対応できないという弱点がありました。
また、 寛永18年(1641)の桶町火事の際には、諸大名が老中奉書により、消火にあたりましたが、江戸の大半を焼く大火となりました。
その反省から、幕府は大名火消を整備し防火消火にあたらせました。
大名火消は、6万石以下の大名16家を4組に編成し、1万石につき30名の人足を出し、1組が10日ずつ防火にあたることにしました。
大名火消は、華麗でものものしい火事場装束に身をかため整然とした隊列で出動したそうです。
消防博物館には、大名火消の華麗な出動の様子が模型で展示されていました。
大名火消には「所々火消」と「方角火消」という組織もありました。
「所々火消」は、幕府の重要施設の防火・消火にあたる大名を事前に決めておくものです。
例えば、元禄年間には、上野寛永寺は5名の大名、芝増上寺は2名、湯島聖堂は1名の大名が定められていました。
「方角火消」は、明暦の大火の跡、12名の大名を桜田、下谷、山手の3隊に分けて防火を命じたのが最初です。