増上寺には徳川家霊廟があります。
増上寺に埋葬されていたのは、2代将軍秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠御台所お江)、皇女和宮(14代家茂御台所)ら5人の正室、桂昌院(5代綱吉の実母)はじめ5人の側室、さらに3代家光の三男甲府宰相徳川綱重など多くの徳川将軍家の人々です。

徳川家霊廟は、増上寺の南側に南御霊屋(みなみおたまや)が、北側に北御霊屋がありました。
南御霊屋は1万7千平方メートル以上、北御霊屋は3万6千平方メートル以上の広さがありました。
南御霊屋には、台徳院霊廟と崇源院霊拝所がありました。崇源院とはお江の法号です。
そして、北御霊屋には、文昭院(6代将軍家宣)霊廟と有章院(7代将軍家継)霊廟がありました。
そして、9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔がありました。さらに、将軍の正室、側室、さらに生母の宝塔も数多くありました。
これらの多くが、昭和20年の空襲で焼失してしまいました。
昭和33年から34年かけて、徳川将軍家の霊廟が発掘調査された後、増上寺の安国殿の裏に改葬されました。
【霊廟の歴史】
下の写真は、有章院霊廟の勅額門の古写真です。

3代将軍家光の大猷院霊廟は、日光と上野寛永寺に造営されました。4代将軍家綱と5代将軍綱吉の霊廟は上野寛永寺に造営されました。
そして、6代将軍家宣が正徳2年(1712)に亡くなり、文昭院霊廟が増上寺に造営されました。
増上寺に将軍
続いて、享保元年(1716年)に7代将軍家継がなくなり、翌享保2年(1717)に有章院霊廟が、文昭院霊廟の北側に造られました。
その後、8代将軍吉宗は、享保5年(1720)に霊廟建立を禁じ、自分は寛永寺の5代将軍綱吉の常憲院霊廟に合祀するよう命じ、これ以後、霊廟の建立はなくなりました。
上の2枚の古写真は長崎大学附属図書館所蔵のものです。

