徳川家墓所には、昨日紹介した宝塔のほか、12代将軍家慶、14代将軍家茂、家茂の正室和宮(静寛院宮)、さらに合祀塔があります。
今日は、それらを紹介します。
【12代将軍家慶の宝塔】
これは、12代将軍家慶の宝塔です。右側の列の一番手前にあります。

1841年、家斉の死後、老中水野忠邦を首座に任用して幕政の改革を行いました。これが有名な天保の改革です。
しかし、忠邦は2年余で失脚し、天保の改革は不十分な結果に終わりました。
嘉永6年(1853)6月のペリー来航の時は病床にあり、ぺりーが去ってまもなくの6月20日になくなりました。
法号慎徳院といいます。
【14代将軍家茂の宝塔】
これは、14代将軍家慶の宝塔です。左側の列の一番奥にあります。

家茂は、紀州藩主徳川斉順(なりゆき)の長子です。
幼名菊千代といい、のち慶福(よしとみ)と名乗ります。
将軍継嗣(けいし)問題で一橋派の推す一橋慶喜に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、安政5年(1858)慶福を推す南紀派の井伊直弼が大老に就任したのち、継嗣となり、13代将軍家定の死去後、将軍職を継ぎ、家茂と改めました。
老中久安藤信正ら公武合体策によりの画策により、文久2年(1862)孝明天皇の妹和宮を夫人に迎えました。
慶応元年(1865)三たびの上洛ののち、翌年7月に第二次の長州征伐の最中、大坂城にて21歳でなくなりました。法号昭徳院といいます。
【家茂正室静寛院宮の宝塔】
これは、家茂の正室和宮(静寛院宮)の宝塔です。左側の列の中央にあります。

和宮は、本名親子(ちかこ)内親王といい、仁孝(にんこう)天皇の第八皇女です。
母は議奏(ぎそう)権大納言橋本実久(さねひさ)のむすめ経子(観行院(かんぎょういん))で、誕生後、橋本邸で養育されました。
嘉永4年(1851)、6歳で、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約しました。
しかし、老中安藤信正の公武合体策によって、文久2年(1862)2月11日には江戸で将軍家茂との婚儀が行われました。2人は同年齢でした。
しかし、将軍家茂は、第二次長州攻撃のため三度目の上洛をした慶応2年(1866)7月20日、大坂城で病死した。21歳の和宮は江戸城にとどまり、12月に静寛院宮(せいかんいんのみや)と名のりました。
江戸城開城後、清水邸に移り、明治2年正月に京都に戻って明治7年6月まで滞在した後、ふたたび東京に帰りました。
明治10年8月から、持病の脚気治療のため、箱根塔ノ沢温泉に滞在、9月2日そこで病死しました。
当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の遺言を尊重する形で、仏式で行われ、亡骸は、家茂がねむる増上寺に葬られました。
【合祀塔】
これは、将軍の生母や側室の宝塔です。

この宝塔には、6代将軍家宣の父親、徳川綱重、11代将軍家斉の正室広大院、3代将軍家光の側室で5代将軍綱吉の生母桂昌院、6代将軍家宣の側室で7代将軍家継の生母月光院などが埋葬されています。
この宝塔は月光院の宝塔だったものが利用されています。

