増上寺には、6人の将軍が埋葬されています。
そのうち、6愛将軍家宣と7代将軍家継について、港郷土資料館が刊行した『平成21年度特別展 増上寺 徳川家霊廟』の図録の中に、葬儀の様子が書かれています。
家宣は、正徳2年(1712)年10月14日に亡くなりました。家宣の棺は、正徳2年10月23日に、江戸城を半蔵門から出ました。
新シ橋を通り、愛宕下、宇田川町、浜松町を経て増上寺に入りました。
平提灯を先頭に、家宣の棺の傍らには、側用人間部詮房、本多忠良が従いました。
葬儀は11月2日に行われました。
遺体は、安置されている方丈から廟所まで、行列を組んで移され、高提灯が先導し、棺には、側用人間部詮房、本多忠良が従いました。
上写真は家宣の宝塔です。
家継は、正徳4年(1716)4月30日になくなりました。 家継の棺は、5月7日申(さる)の刻(午後4時頃)に江戸城を出発しました。
葬列は、半蔵門を出て、幸橋御門を抜け、二葉町、兼房町、宇田川町、浜松町から増上寺に向かいました。
棺は、増上寺に入ると、方丈に安置されました。
5月15日、酉(とり)の刻(午後6時頃)家継の遺骸が埋葬されました。
上写真は、家継の宝塔です。
この二人の将軍の葬儀の記録からは、次の点がわかります。
①二人とも、江戸城を出るのは、半蔵門を利用しています。
②葬列は、夕刻に出発しています。
家継の場合には、申の刻に出発していますし、家宣の場合には、平提灯が葬列の先頭を進んでいますので、薄暗い時刻であると予想されます。
③葬列は、増上寺に入るには、御成門ではなく、浜松町(つまり大門)を抜けています。
④増上寺に入った遺骸は、方丈に安置されました。
⑤増上寺に遺骸が移された後、8日から9日して埋葬されています。
将軍は、埋葬される時には、胡坐をした姿で埋葬されるのが基本だと、江戸検1級仲間のハカマオーが教えてくれました。
最後に、江戸時代後期には、将軍の葬儀や年忌法要の際に、将軍家、諸大名が準備する香典料は、男子の場合には老中が、婦女子の場合には、大奥によって定められていたそうです。
時代が違いますが、 家宣の葬儀の際の香典は、60万石以上の藩主は、(白)銀30枚だったそうです。

