今日は、「上野寛永寺 将軍家の葬儀」に基づいて、5代将軍綱吉の葬儀の様子を書いていきます。
5代将軍綱吉は、宝永6年(1709)の正月10日に亡くなりました。
そして、22日に綱吉の棺は江戸城から寛永寺に移されました。
綱吉の棺は、北桔橋に向かい、そこに凌雲院大僧正実観などの寛永寺の迎僧が出迎えました。
この日は、雨天のためか、北桔橋での法要は行われませんでした。
綱吉の遺骸は、雨の中を道中し、戌(いぬ)の刻(午後8時ごろ)に寛永寺に到着しました。
寛永寺では、本坊の東に急遽仮の御門を設け、遺骸はそこから本坊に入り、上之間に上段を設け、そこに安置されました。
このように、正門や他の既設の門を使用しないということは慣例となっていたそうです。
本坊への入棺が終わると「五五三」の御膳が供えられました。
これから28日の葬送の日までの間、毎日、朝の法要、昼の法要、夜の法要が行うよう定められました。
葬送の日の28日の「申終計(さるのおわりばかり:午後5時から6時前)」に「集会の鐘」(法要のために参集を促す鐘)が衝かれ、寛永寺一山をはじめ各地の天台宗から招集された僧侶たちが本坊に参集しました。
これら出仕の僧侶たちによる「庭の賛」が終わると、「酉刻計(とりのこくばかり)」(午後6時ごろ)にいよいよご出棺となります。
綱吉の棺は本坊の東側に設けられた仮の御門から出ます。
この際に、御門から御廟までの道の左右のすべてには幕が張り回され、その道筋はすべて白布が敷かれました。
しかも、この道筋の左右には、一間おきに高張提灯がかかげられました。
白布を敷く仕来りと夜儀について浦井氏は次のように書かれています。
この白布を敷くという仕来りは、家康の遺骸を九能山に安置したとき以来のものである。
将軍の葬儀や法要で最も大事な部分は「夜儀(やぎ)」といって、夜に入る頃から執り行われものであり、 これは、家康の時に、天皇家の儀礼を模して行ったことに始まると考えられる。
現地の御仮屋では綱吉の棺を輪王寺宮が迎えました。
そして、起龕(きがん)、鎖龕(さがん)の作法すなわち棺を江戸城から寛永寺に移して法要を勤め、最後に鎖で棺を閉じる作法全体が終わったというわけで、凌雲院住職実観が綱吉のことを賛嘆する文章を読み上げ、輪王寺宮が、しきみの枝を投じました。
輪王寺宮の作法が終わると綱吉の棺は廟穴の外側に設けられていたお仮屋に納められました。その後、廟穴に何時納められたのかの記載はないそうです。
家宣の名代として老中の土屋相模守政直が拝礼し、宮は政直に会釈したのち本坊へ帰られました。
家宣は、この葬送の儀に参列していませんが、当時としてはごく普通のことだったそうです。