麟祥院は、春日局が開いたお寺であり、春日局の菩提寺でもあります。
東京メトロ「湯島」駅3番出口から 徒歩6分、又、東京メトロ丸の内線「本郷三丁目」駅2番出口から徒歩7分の場所ににあります。
拝観は、午後3時までですので、ご注意ください。
麟祥院は臨済宗妙心寺派のお寺です。
寛永元年に創建されました。
境内の周囲に枳殻の木を植えていたので、別名「枳殻(からたちでら)」とも呼ばれました。
【麟祥院は春日局の法号】
開基「春日局」は徳川三代将軍家光の乳母として知られています。
春日局は、幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ち、将軍家光から本郷湯島の土地を拝領しました。そして寛永元年(1624または寛永2年)に創建され、お寺の名前は「報恩山天沢寺」と名づけられました。寛永7年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。
寛永11年(1634)、天沢寺の渭川和尚から「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」という法号が贈られました。
これを喜んだ家光は、春日局んp法号をもって寺号とするように命じたため、春日局が死んだ後。「天沢山麟祥院」と号するようになったと言われています。
【春日局の略歴】
春日局の生涯を簡単に紹介します。
春日局は名を福といいました。
春日局という名前は、寛永6年(1629年)に大御所秀忠の内意を受け上洛した際に、御所に参内して天盃を賜り春日局の号を許されたものです。

春日局の父は明智光秀の家老であった斎藤利三(としみつ)です。
明智光秀が本能寺の変を起こしたため、父は首を斬られ、お福も苦労します。
成人して、母方の一族稲葉重通(しげみち)の養女となり、小早川秀秋の家老であった稲葉正成と結婚します。
慶長9年(1604)家光が生まれ、乳母を捜していたことから、京都所司代板倉勝重の推挙により乳母となります。
家光は病弱であったり内向的であったため、弟忠長が将軍の後継者になりそう情勢になったりする中、必死になって家光を守ります。
忠長との後継者争いの際には、伊勢参りのふりをして、駿府に行き、大御所家康に訴えました。
これより家光は後継者になりました。また家光が疱瘡にかかった際には、薬だちの誓いをしてまで回復を願いました。
こうしたことから、軍家光に対しても強い影響力をもち、お江がなくなった後、春日局は大奥を統率し、絶大な権勢を振いました。
【墓石には穴が貫通】 こうした春日局は寛永20年(1643年)9月14日になくなりました。64歳でした。
そして、麟祥院に葬られました。
春日局の墓石に四方から穴が貫通している大変めずらしい形をしています。
これは局が「黄泉(よみ)からも天下のご政道(せいどう)を見守れる墓」を作ってほしいという遺言によってこのような形に建立されたものだそうです。
春日局の家紋は隅切角に三(すみきりかくにさん)という家紋です。
春日局は、稲葉家の出身ですが、稲葉家も繁栄します。
長男の稲葉正勝は老中となり小田原藩主となり、その子孫からは老中が何人も輩出し、幕末は、淀藩の藩主として明治を迎えました。
文京区には春日町という町名がありますが、これは春日局に由来するものです。また、麟祥院の前の通りを通称春日通りとも言います。麟祥院は、東洋大学の前身である哲学館創立の場所でもあります。
そのため、山門脇に、東洋大学発祥の地の碑が建っています。
哲学館は明治20年に井上円了(えんりょう)によって創設されました。

