現在の上野公園一体は、江戸時代は、寛永寺の境内でした。
寛永寺の境内は30万5千坪もあったそうですので、寛永寺の境内だった場所の一部がう、現在の上野公園であると言えます。
今日は、寛永寺の歴史について書いていきます。
【天海大僧正が建立】
右写真は、現在の寛永寺の本堂ですが、寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。
天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた大僧正です。
天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。
そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えました。
当時この地には伊勢津藩主藤堂高虎、弘前藩主津軽信牧、越後村上藩主堀直寄の3大名の下敷がありましたが、それらを収公してお寺の敷地としました。
【本坊建立】 秀忠が隠居した後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に寛永寺の本坊(住職が住む建物)が建立されました。
寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多いのです。
寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館(上の写真)が建っている場所にありました。
【比叡山延暦寺が手本】
天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立しました。
寛永寺は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立されました。
これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。
そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。寛永寺の正式な名前は、東叡山寛永寺円頓院といいます。
そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。
年号が、お寺の名前に使用されているのは、ほかに仁和寺と建長寺があるくらいであり、非常に稀な例です。
また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。
さらに、つぎつぎと建立した建物も、比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとなっています。
代表的なものは、琵琶湖に模した不忍池であり、不忍池の弁天堂は琵琶湖の竹生島を模したものです。
そして、清水観音堂は、京都の清水寺を模したものです。
その後、寛永4年(1627年)には東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されました。
そして、寺の中心になる根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍綱吉の時代です。
根本中堂が建っていたい場所は、現在、噴水広場(上の写真)になっています。

