寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約30万5千坪もあり、寺領は大名並みの約1万2千石ありました。
寛永寺の堂塔は、現在の上野公園の中央部分の噴水広場に あたる 竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂がありました。
また、現在の東京国立博物館の敷地には寛永寺本坊がありました。さらに清水観音堂、不忍池弁天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が立ち並んでいました。
そして、、子院も36坊をありました。
まさに壮大な堂塔伽藍であったわけです。
しかし、慶応4年に官軍と彰義隊が戦った上野戦争では、寛永寺に彰義隊がたてこもり、境内が戦場となったため、伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。
残った建物は、清水観音堂(上の写真)と東照宮ぐらいのものでした。
上野戦争は次のような経緯で勃発しました。
15代将軍徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った後、恭順の意を表し、寛永寺に蟄居しました。
しかし、一部の幕臣は、慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として寛永寺にたてこもりました。
これに対して、慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の官軍は上野を総攻撃し、彰義隊は同夕刻敗走しました。これが上野戦争です。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって山王台で茶毘に付されました。
彰義隊の墓は、隊士を荼毘に付した場所に建てられています。
正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものです。よく見ると、「彰義隊戦死之墓」とある左脇に「回向主沙門松国」と施主名が刻まれています。
これは、墓石を建てた寒松院と護国院を略した言葉だそうです。
回向主も、明記できなかったということだそうです。
大墓石は、明治14年(1881)12月に 元彰義隊士 小川興郷(椙太)らによって 建立されたものです。
彰義隊は、明治14年になっても明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字がなく、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字が大きく刻まれています。

