寛永寺の本堂(根本中堂)は、現在は、常憲院霊廟の近くにあります。最寄り駅は上野駅でなく鶯谷駅で、北口からでも南口からでも徒歩約7分のところにあります。
【川越喜多院の本地堂を移築】
元々、寛永寺の旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水のところにありましたが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失しました。
そのため明治12年に、寛永寺の子院であった大慈院に、埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移築し、寛永寺の本堂としたものです。
この建物は寛永15年(1638)の建造と言われています。喜多院でも、薬師様がお祀りされていたそうです。
寛永寺の説明書によると、 根本中堂の開口・奥行ともに17.4メートル)あります。そして、前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝があります。
周囲には勾欄付廻縁をめぐらしています。
また、桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままで、屋根は入母屋造、本瓦葺、二重垂木となっています。
【勅額「瑠璃殿」】
本堂正面に掲げられている額は、東山天皇が自ら書いた「瑠璃殿(るりでん)」の勅額です。
薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来と呼ばれます。瑠璃というの、この薬師瑠璃光如来からとられた言葉です。この勅額は、元禄11年(1689)に建立された元の根本中堂に掲げられていたものですが、上野戦争の際に、奇跡的に事前に持ち出されていたものです。
江戸では大火がしばしばおき、十大大火と呼ばれる大火がありました。その中に「勅額大火」と言う大火があります。「勅額大火」は、寛永寺の根本中堂に掲げられる勅額が江戸に到着した日におきたため、そう名付けられました。
この勅額は「勅額大火」の由来となった勅額でもあります。
【ご本尊薬師三尊は秘仏】 根本中堂の内部は、もともとは、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられていて、須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置されているそうです。
内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものですが、現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷となっているそうです。
そして、内陣の厨子内には秘仏の本尊薬師三尊像が安置されています。御本尊は、伝教大師最澄上人が自ら刻んだとされていて、国の重要文化財に指定されています。
本堂は、昨年1月から、法要のない日曜日・祝日には公開されているので、中をみることができます。
【慶喜謹慎の「葵の間」】 現在の寛永寺の根本中堂がある場所は、江戸時代には、大慈院という寛永寺の子院がありました。
この大慈院は、鳥羽伏見の戦いで敗北した徳川慶喜が、新政府に対して恭順の意を表すために、謹慎していた場所です。
本堂裏手にある書院には、水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間)が保存されています。しかし、残念ながら非公開です。

