その尾形乾山の墓と顕彰碑が寛永寺にあるので驚きました。
今日は、尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 (けんざんしんせいせき)の紹介です。
【尾形乾山の略歴】
尾形乾山は、京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)尾形家の三男として生まれました。
尾形光琳(こうりん)は彼の次兄です。
有名な野々村仁清(ののむらにんせい)の影響を受け陶工になり、鳴滝に窯を築きました。この窯が京都の乾(いぬい)の方角にあたるため「乾山」と窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身の雅号に用いていました。
その乾山は、京都で作陶活動をしていましたが、正徳・享保年間(1711~35)に、寛永寺の住職となった輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き陶器を作りました。
その作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
以後、尾形乾山は江戸で過ごし、寛保3年(1743)に81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られました。
しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在が忘れ去られてしまいました。
江戸時代後期になって、尾形光琳の作品に惚れ込んだ酒井抱一によって、乾山の墓が探り当てられ、文政6年(1823)に、顕彰碑である「乾山深省蹟」が善養寺に建てられました。
なお、「深省」とは、乾山の別号だそうです。
【酒井抱一は姫路藩主の弟】
酒井抱一は江戸琳派の創始者と言われます。姫路藩主酒井忠以の弟という名門の出身です。
抱一は、文化12年(1815)に光琳百回忌を開催し、根岸の寺院で「光琳遺墨展」を催したり、『光琳百図』を出版したりしています。また、文政2年(1819年)には光琳の墓碑を修築しました。
そして、文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くに碑を建てたりするなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めたのでした。
【寛永寺に尾形乾山墓碑・顕彰碑がある理由】
乾山の墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨)内に現存し、東京都旧跡に指定されているそうです。
善養寺の碑は、明治末の善養寺の移転の際に、当時鴬谷にあった国華倶楽部の庭へ移転し、大正10年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に移り、その後、西巣鴨の善養寺へと三たび移転を重ねたそうです。
こうした経緯から墓石と顕彰碑が寛永寺に一時期置かれていたため、寛永寺根本中堂前の境内に、乾山の墓と乾山深省蹟を復元し建てたものです。昭和7年、有志により建立されたものです。