今日は、この上野東照宮の大きな石鳥居のお話です。
上野駅から徒歩10分程度で行きます。
【東照宮は、藤堂高虎創建】
寛永寺ができる前に、上野には、藤堂高虎の下屋敷がありました。
藤堂高虎が寛永4年(1627)その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社を創建しました。
社伝では、家康がなくなる時に、藤堂高虎と天海僧正が、危篤の家康の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言されたので、藤堂高虎の屋敷がった場所に創建されたとされています。
東照宮は、創建当時は東照社と呼ばれていましたが、正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈り、それ以後、家康を祭る御宮を東照宮と呼ぶようになりました。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。
【大石鳥居】
東照宮の入口に、大きな石鳥居があります。
この鳥居は、寛永10年(1633年)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。
石鳥居のの左の柱に寛永10年 酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれています。
この鳥居の様式を明神型鳥居といいます。
酒井忠世は、秀忠付の年寄でしたが、家光が世継となると家光付の年寄となります。
家光は、は平素口数少なく厳正な忠世を最も畏れたといいいます。
この鳥居を奉納された翌年の寛永11年家光が30万の大軍を率いて上洛した際に、7月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は責任をとって寛永寺に退去しましたが、これがかえって家光の怒りをかい失脚することとなりました。
子は忠行、孫は下馬将軍とよばれた酒井忠清です。
この石材には備前の御影石が使用されています。
鳥居の右の柱には、「得鉅石於備前迎 南海運干当山」と刻まれていて、備前で巨石を取り出し、船で運んできた旨が書かれています。
この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。
国の重要文化財に指定されています。