西郷さんの銅像の北側に天海僧正毛髪塔があります。木陰にあるのであまり目だちません。
天海大僧正は寛永20年(1643)に寛永寺子院の本覚院で108歳でなくなりました。遺命により日光山に葬られ、上野(旧本覚院跡)には供養塔が建てられました。
その後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔とよばれるようになったそうです。(右下写真)
天海は陸奥国会津高田に生まれました。蘆名氏の出身と言われています。生年には各説がありますが天文5年(1536)説が有力です。
天海は会津の黒川稲荷堂別当の弁誉舜幸のもとで得度し「随風」と名のりました。のち関東から比叡山、三井寺、興福寺で遊学しました。
23歳の時に母が病死したため一時帰郷した後、再び遊学の旅に出て、永禄3年(1560)から4年間足利学校に学びました。その後、再び比叡山に登ろうとしましたが、織田信長の比叡山焼き打ちに遭遇した後、武田信玄に招かれて、講師を務めたこともありました。
天正元年に、故郷の黒川稲荷堂別当となり、天正5年(1577)上野国世良田(せらだ)長楽寺において春豪(しゅんごう)に師事し、さらに天正18年(1590)川越喜多院で僧正豪海に師事し、名を天海と称しました。
天正19年(1591)蘆名盛重が小田原北条氏攻略の戦功により、常陸国河内郡に4万8千石を与えられると、盛重の懇請により江戸崎の不動院の住職となりました。
これ以降、家康と巡り合い非常に活躍しますが、これ以降の足跡は明日にします。
赤印が「天海僧正毛髪塔」です。