慶長4年(1599)無量寿寺北院の豪海の後を受けて、天海が北院の第27世の住職となりました。
右の写真は喜多院の山門前にある天海大僧正の銅像です。
慶長12年(1607)には比叡山の南光坊への在住を命ぜられました。
慶長14年(1609)、朝廷より権僧正の僧位を受けました。
また慶長17年(1612)に家康により無量寿寺北院の再建が着手され、院号を喜多院と改め関東天台の本山とされ、天海が院主として招請されました。
慶長18年(1613)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊の光明院を再興しました。
元和2年(1616)4月危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を天海らに託しました。
その内容は、「死後、遺体は駿河国久能山に葬り1周忌が過ぎてから、下野国日光山に勧請すること」というものでした。
家康死後には神号を巡り金地院崇伝、本多正純らと争いがありましたが、家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬しました。天海が生前、家康に仕えたのは7年間だったといいます。
元和2年(1616)7月に大僧正となった天海は、日光東照社の造営にあたり、元和3年(1617)に久能山から日光への遷座が完了しました。
その後徳川秀忠・徳川家光に仕え、寛永2年(1625)には上野に寛永寺を創建しました。
また、東照宮の七回忌、十三回忌、十七回忌、二十一回忌、二十五回忌法要すべてを日光東照宮において天海が導師を勤め執り行いました。
天海大僧正は、寛永20年(1643)に没しました。年齢は108歳であったといいいます。現在でも108歳というと大変長命です。それが江戸時代に108歳まで生きられてたか疑問に思われると思いますが、天海存命中から高齢であるということは有名だったそうです。現在では108歳でなくなったというのが定説だそうです。
死後、寛永寺で葬儀が営まれた後、東照権現の久能山から日光山への遷座の例に倣って千人余の供奉により、日光山内大黒山に葬られました。
そして、死後5年後の慶安元年(1648)に、朝廷より慈眼大師号を追贈されました。