寛永寺の開山堂や輪王殿の北東方向の位置にあります。(下の地図参照してください)
殉死者の墓は、慶安4年(1651)4月20日、三代将軍徳川家光が死去した際に、その後を追って家光の家臣5名が殉死しました。そのうち、家臣4名の墓が現龍院の墓地の中にあり、「殉死者の墓」という史跡となっています。
現龍院の撥は通常は施錠されていて自由には参拝できません。
しかし、現龍院さんに電話でお願いしましたら、鍵を貸していただけるということでしたので、鍵を借りてお参りしました。
お墓にお参りした後、現龍院の墓地に殉死者の墓がある由来を尋ねましたら、現龍院住職で寛永寺の執事長もされている浦井正明住職がお答えいただきました。
浦井住職のお話では、
現龍院は、春日局が、局の夫稲葉正成の菩提のために天海大僧正と相談して建立したお寺だそうです。
堀田正盛は、春日局の孫ですので、現龍院と堀田正盛とは関係があります。
そこで、現龍院の第三世の亮伝大僧正が、殉死者を埋葬したいと幕府に願い出て、4人が現龍院に埋葬されるようになったそうです。
堀田家や稲葉家や阿部家の菩提寺は別にあるので、殉死した人たちだけが葬られているそうです。
家光に殉死したのは5人いますが、そのうち、堀田正盛、阿部重次、内田正信、三枝守恵の4人の墓があります。
【堀田正盛の墓】
堀田正盛は、老中で、下総国佐倉藩主です。
堀田正盛は春日局の孫にあたります。 堀田正盛の母は稲葉正成が先妻との間に儲けた女子です。
稲葉正成の2度目の妻が春日局です。
そのため、堀田正盛は春日局の義理の孫にあたることになります。
春日局の関係者であるため、13歳のときから家光に仕えました。
寛永3年(1626年)には小姓組の番頭となりました。寛永10年(1633年)に松平信綱らと共に六人衆(後の若年寄)に列せられ、異例の出世をしました。
このような異例の出世は、春日局の孫という関係のほか家光と堀田正盛とは男色関係でにあったためだという説があります。そして男色関係であったため堀田正盛は殉死したと言われています。
【阿部重次の墓】
阿部重次は老中で、武蔵国岩槻藩主です。
阿部正次の次男です。
家光に仕え,寛永9年小性組番頭。寛永10年に松平信綱や従弟の阿部忠秋らと,六人衆に任命され,家光政権の中核となり幕政に参画しました。
家光の弟徳川忠長が幽閉されていた上野高崎にしばしば派遣され,忠長を自殺に追い込む役割を果たしました。
阿部重次は堀田正盛と異なり、殉死する必要なないと止められましたが、忠長を自殺に追い込む役を果たす際に家光に命を預けていたので、家光の死に殉ずるといって、殉死したそうです。
前記の二人のほかに、 内田正信(小姓組番頭・御側出頭、下野国鹿沼藩主)と三枝守恵(元書院番頭)の墓も現龍院の墓地内にあります。
赤印が現龍院の墓地です。