【佐久間象山遭難碑】
佐久間象山は、信州松代藩藩士で名は啓(ひらき)といい、象山は号です。
一般には「しょうざん」といいいますが、長野では「ぞうざん」と呼ばれることが多いそうです。
松代藩主真田幸貫が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢され、海外事情を研究し、弘化元年(1844)34歳のときにオランダ語を学び始め、嘉永4(1851)には江戸で塾を開き、砲術・兵学を教えました。
佐久間象山の教え子には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らの有名人がいます。
嘉永(1853)、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた佐久間象山は、老中阿部正弘に「急務十条」を提出する一方、弟子の吉田松陰に外国行きを勧めました。松陰の海外密航は失敗し、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居させられました。
蟄居中、西洋研究に没頭し、攘夷論から和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになりました。
文久2年(1862)に蟄居を解かれ、元治元年(1864)幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国の考えを要人に具申してまわりましたが、尊王攘夷派の怒りを買い、文久2年7月11日に斬殺されてしまいました。
以下は、江戸検定1級合格者でありさらに京都検定1級に今年合格したOさんの象山暗殺についてのコメントです。
「佐久間象山の殺害は,元治元年7月11日の今で言う午後2時30分ごろでした.幕府に海軍御備向御用雇を命じられて,この年の3月に入京し,木屋町通り御池下がるの大坂屋に仮寓していました.
一般に象山は木屋町通りを,洋馬にまたがり洋服を着て通行中に遭難したとされていますが,襲われたのは三条堤の上でのことのようです.そこで斬りつけられ,馬を駆って木屋町通りに逃げ込んだようです。
犯人は河上彦斎ともう一人,これは因州の南長次郎か前田伊右衛門といわれています。
罪状は三条大橋に掲げられ,理由は『開港交易を朝廷や諸大名に進言し,さらに不測の事態に備え,天皇を彦根に動座させることをたくらんだから』とありました。」
Oさん、コメントありがとうございました。京都通としてのコメントこれからもよろしくお願いします。
【大村益次郎遭難碑】
佐久間象山遭難碑の南隣が大村益次郎遭難碑です。
大村益次郎は長州の洋学者で、我が国の近代的軍制の創設者です。
元々は緒方洪庵やシーボルトのもとで学んだ医者で村田蔵六と呼ばれていましたが、 第2次長州征伐以降は、長州藩の軍略家としての能力を発揮します。
大村益次郎の生涯は、このブログでも、 「大村益次郎」として既に4回にわたって書いていますので、詳しい生涯はそちらをお読みください。
上野で彰義隊を敗北させ、東北および函館の戊辰戦争を江戸にいて指揮し勝利に導いた大村益次郎は、明治2年に兵部大輔(ひょうぶたいふ)となりました。
そして、明治新政府で国民皆兵論をとなえ、その実現をめざしました。
しかし、それは、士族の特権を奪うもので士族の反感を買いました。
そうした中で、大村益次郎は明治2年7月に京阪地方に出張しました。
その出張中の9月4日、投宿中の木屋町の旅館で、同じ長州の不平分子(団伸二郎といわれています)らに襲撃されました。
9月4日の午後6時ごろ、知人と酒を飲んでいたところ訪ねてきた男は応対にでた者を斬り、2階にいた大村益次郎を襲撃しました。
初太刀は浅かったのですが、次の打ち込みで小村益次郎は右足のひざに重傷を負いました。
そして、大村益次郎は、灯りが消えた闇を利用し浴室に隠れ命は助かりました。
しかし、一命は取り止めたものの傷は深く、大阪の病院に移り、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けました。右足を切断しなくてはならないほどの重傷でしたが、手術後容態は一時回復ました。
しかし、襲撃された2ヵ月後の11月5日に、容態が悪化しついになくなってしまいました。46歳でした。
この大村益次郎の看護には、シーボルトの娘であり、大村益次郎との交際説もある楠本イネがその娘高子とともにあたりました。
※上の佐久間象山と大村益次郎の写真は国立国会図書館所蔵のものです。
赤印が「佐久間象山遭難碑・大村益次郎遭難碑」です。碑は別ですが隣り合わせに建てられています。