木屋町通りを南に下り姉小路通りの一本南側の通りとの交叉点そばに料亭「金茶寮」があります。
その入口に「武市瑞山先生寓居之跡」の碑がありました。
半平太は通称で、瑞山は雅号です。瑞山という号は、久坂玄瑞の一字をとったとも、万葉集の瑞山(みずやま)からとったという説もありますが、文久2年に平井収二郎の意見を取り入れて瑞穂の一字を借りたものという説もあります。
「金茶寮」には「武市半平太ゆかりの部屋」が現存しているそうです。
【武市半平太】
武市半平太は、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で大森南朋が好演したので、覚えている人も多いと思います。
武市半平太は京都では、他藩応接役として、尊王攘夷派の公卿や浪士と交流しました。
その際の隠れ家として文久2年(1862)閏8月から木屋町に住んでいました。。
武市半平太は、文政12年(1829)生まれました。龍馬より6歳年長です。
武市家はもと郷士ですが長年の御用人勤務が認められて、半平太の祖父の代に白札に昇格しました。
武市半平太は9歳から高知城下に出て学門と剣術を学び、安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門しました。最初は土佐藩邸から通いましたが、後に師匠のもとに寄宿しました。安政4年には免許皆伝となり、士学館の塾頭となりました。半平太が塾頭となってからは放蕩無頼であった士学館の塾風が改まったといわれています。
文久元年(1861)8月には江戸で土佐勤王党を結成し、土佐に帰って同志を募り最終的には192人の参加者になりました。
【絶頂の京都】
文久2年4月には参政吉田東洋を暗殺して公武合体の藩論を変革し、藩主豊範を擁して上洛、他藩応接役となって活躍しました。 その活躍のもととなったのが、木屋町の住まいです。
文久2年6月、吉田東洋暗殺のために延期していた山内豊範の参勤交代に出発しました。途中、麻疹の影響で大坂で約一ヵ月の逗留を余儀なくされた後、一行は、8月25日、京都河原町の土佐藩邸に入りました。
そして、閏8月に武市半平太が他藩応接役に任じられました。この時同時に、尊攘派の小南五郎右衛門・平井収二郎なども他藩応接役に任じられています。
武市半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構えました。
武市半平太は長州の久坂玄瑞らと交流しつつ、三条実美や姉小路公知らの尊攘派公卿とも交際を深め、幕府に対して攘夷を督促する勅使を江戸に派遣するための朝廷工作を行いました。
これらの活動の結果、10月に幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使三条実美、副使姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられました。
そして、武市半平太は公家の家司である雑掌として姉小路公知に随行し江戸へくだりました。
江戸では将軍徳川家茂にも拝謁し、幕府側から饗応も受けました。
12月に役目を終えて京都に戻った半平太は、上士格の留守居組へ昇進します。 さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居加役となりました。京都留守居役は、江戸留守居役とならぶ出先機関のトップで高禄の人物が勤めてポストです。臨時とはいえその留守居役に任ぜられることは、土佐藩において前例の無い事でした。
この頃が彼にとっても、土佐勤王党にとっても絶好調の時期でした。
しかし、翌文久3年8月の京都政変後、山内容堂は土佐勤王党弾圧に踏み切り、武市半平太も同志とともに捕えられました。
そして、入獄1年9カ月の慶応元年(1865)閏(うるう)5月11日、半平太は切腹を命ぜられました。 39歳でした。
赤印が武市半平太の寓居跡です。