高山彦九郎は幕末でなく、寛政期に活躍した人物ですが、銅像が有名ですので、今日は「高山彦九郎」について書いていきます。
【京都御所を遥拝する高山彦九郎】
三条大橋の銅像は、高山彦九郎が御所を遥拝している姿を模したものです。
最初は、昭和3年に建てられましたが、戦時中、供出され、現在の銅像は昭和36年に建てられたものです。。
想像していた以上に大きな銅像でびっくりしました。一緒に写っている人物と比較してみると大きさがよくわかると思います。
高山彦九郎は、蒲生君平(がもうくんぺい)、林子平(しへい)とともに寛政の三奇人といわれます。
高山彦九郎は、上野)国新田郡(群馬県太田市)に生まれました。
名は正之、彦九郎は通称です。
13歳のころ『太平記』を読んで、生地が新田氏ゆかりの地であることもあって勤王の志をたてたといわれています。
18歳のとき京都に出て学問を修め、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁したそうです。
その後も、諸国を歴訪しました。
寛政元年(1789)江戸に行き、翌年には水戸から奥州を経て松前にまで行きました。
そして、九州を遍歴中、寛政5年、久留米で突然切腹して死んでしまいました。自刃の理由ははっきりしないそうです。
【東海道西の起点 三条大橋】
三条大橋は、東海道の西の起点でもあります。
本格的な橋として架けられたのは、豊臣秀吉の時代の天正18年(1590)だそうです。
江戸時代になると、幕府が管理する公儀橋となり、流失した際には、幕府が修復しました。
現在の橋は、昭和25年に改造されたもので長さが74メートルあるそうです。
橋の西のたもとには、弥次さん喜多さんの銅像がありました。
また、 三条大橋の儀宝珠は、天正のものと昭和のものが混在しているそうです。
三条大橋の南側で西から2番目の儀宝珠には刀傷があります。
説明板によると、この刀傷は池田屋事件の際につけられたものといわれているそうです。
はっきりとわかるものでした。
池田屋事件については、来週、詳しく書きます。
赤印が高山彦九郎の銅像、青印が弥次喜多像です。