まず、事件の起きた「池田屋」は、三条小橋の西側にありました。三条小橋は、三条大橋の西側にあり高瀬川に架かる橋です。
その三条小橋から メートル程の所に「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。
ちなみに、池田屋事件は池田屋騒動とも呼ばれます。
現在は、石碑がある場所で居酒屋チェーン「はなの舞」が「池田屋 はなの舞」という名前で商売をしています。下記の地図をご覧ください。
池田屋は、当時、旅籠をやっていました。長州藩の定宿だったという説もあります。
この池田屋で、元治元年6月5日に新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した事件が『池田屋事件」です。
この池田屋事件は、有名ですので、数回に分けて書いていきます。
今日は、池田屋事件が起きる直前までの情況について書いていきます。
ただし、池田屋事件は非常に有名な事件の割には、本により書かれていることが異なっていたりします。
以下のことと違う説もあると思いますが、その点ご容赦ください。コメント欄にコメントしていただいても結構です。
文久3年8月、会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変により、尊王攘夷派のや長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。
尊王攘夷派は勢力挽回の機会をうかがっていました。これを阻止すべく新撰組は市中警戒を強めていていました。
6月5日、新撰組は、四条小橋西側で道具商を経営する枡屋に踏み込み、主人喜右衛門を逮捕します。
喜右衛門の本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)といいました。喜右衛門は、近江大津の出身で湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋湯浅真右衛門と変名して、この地に「枡屋」を構えました。
養子になる前から尊王攘夷派の志士と付き合いがあり、店を開いてからは枡喜は多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていました。
四条通りの一本北側の小路に、古高俊太郎寓居之跡の碑がありました。
「しる幸」というお店の玄関脇にありました。(左写真)
そして、壬生の屯所に連行し、厳しく追及しました。しかし、名前が「古高俊太郎」とだけ白状しました。古高俊太郎は近江の出身で枡屋の養子になり、攘夷運動を行っていました。
が、それ以外は口をわりませんでした。そこで、土方歳三が拷問により古高を自白させました。
その内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。
壬生の前川家には、現在も古高俊太郎の拷問をした土蔵が今も残っています。
驚いた近藤勇は、すぐに京都守護職、会津藩、京都所司代に連絡し、協議しました。
その結果、新撰組と諸藩兵士で協同で探索をすることになり、八坂神社前の祇園会所で落ち合うことにしました。
この後の展開は明日に書きます。
赤印が池田屋事件の跡
緑印が古高俊太郎邸跡の石碑