会津藩などと祇園会所で待ち合わせて市中探索を行う予定でしたが、決められた時刻になっても、会津藩は来ませんでした。
この時期、新撰組の隊員の減少が続き、全員で40名程度だったといわれています。
このうち池田屋事件に参加した隊員は34名であり、祇園会所にも34名が動員されたものと思われます。
この人数では、市中探索を行うには、十分とはいえませんでしたが、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切りました。
近藤隊と土方隊の二手に分け、土方隊は24名で鴨川東側を北上しつつ縄手通を探索することにし、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助ら9名を率いて10名で鴨川西側の木屋町通りを北上しつつ捜索を開始しました。
近藤隊は、木屋町通りを探索しつつ北上していきました。そして、午後10時半ごろに、三条小橋(下写真)の西側にある池田屋にいたり、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。
池田屋で尊王攘夷派の志士たちが会合しているのに気がついたキッカケについては、いろいろな本にさまざまに書かれています。事前に情報があったとか、池田屋に長州藩の紋がある提灯が下げられていたからとか、夜遅い時間に灯りがもれていたからとか書かれています。
近藤は、玄関先と裏側に数人づづ配置し、池田屋には、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助らと踏み込みました。
池田屋に踏み込んだところ、池田屋の主人が2階に向かう階段付近で、2階にあわてて大声をかけました。
近藤勇と沖田総司が、2階に駆け上がると、20数名の尊攘派志士がいたそうです。
近藤ちちと志士たちとの間で激しい戦いが始まりました。
戦いの途中で、沖田総司は、結核のため戦えなくなり、戦線を離脱します。また藤堂平助も負傷しますが、新撰組は戦い続けます。
戦っている途中、土方隊も到着し、戦いに参加し、新撰組は一気に優位にたちます。
さらに、出動の遅れた会津藩の軍勢も到着し、周辺をかためました。
2時間にわたる戦いにより、大勢の尊王攘夷の志士たちが殺されたり逮捕されました。
正確な数はわかりませんが、近藤勇の手紙では、死者7名、負傷者4名、逮捕者23名と書かれています。
死者の中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)らがおり、この事件により、倒幕が一年遅れたといわれるほどの大きな影響を与えました。
この戦いに勝った、新撰組は、会津藩や幕府から多くの恩賞を受けるとともに、一躍全国にその名を知られようになりました。
次は、江戸検1級仲間のOさんからいただいた池田屋事件についてのコメントです。Oさんいつもありがとうございます。
「池田屋に最初に突入した五人(近藤,永倉,沖田,藤堂,周平)ですが,近藤勇は天井の低い2階での不利を悟り,沖田一人にまか せ,自身は1階に降りて戦いました.二階では沖田の剣が冴え渡り,次々と敵を倒しましたが,突然に喀血して倒した敵の体の上に昏倒 しました。
敵はそれを見ても沖田の強さに手出しが出来ず,逃げることばかりを考えていたといいます。
一般には,結核による喀血といわれますが,その後4年ほど生きていて活躍しているので,その時は突発性の緊張から来る異変だったように思われます。
また,その時負傷した永倉・藤堂・沖田らは,祇園会所に運ばれ手当を受けたといわれます。
この祇園会所は現在は八坂神社石段下交差点かどのローソンになっている辺りです。
祇園祭りの宵山で多くの人で賑わっている中,戸板に乗せられた隊士を京童が恐怖の目で追っている様子が目に浮かびますね。」