今日は当事者の記録をもう一件紹介します。それは「新撰組顛末記」です。
これは、近藤勇とともに池田屋に突入した永倉新八の回顧談をまとめたものです
永倉新八は、松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番組組長を務めていました。明治以降も生き残り、藩医杉村介庵の婿養子となり、杉村義衛と改名し、大正4年77歳でなくなりました。
「新撰組顛末記」のなかから、池田屋事件に関係する部分のいくつかを抜粋して書いていきます。
【古高自白】
古高俊太郎を逮捕した後、企てを自白したのは土方歳三の拷問によるものであることを次のように述べています。
古高をひったてて壬生の屯所へ引き揚げた。 近藤隊長はみずから古高を調べたが すでに死を決して上京したほどのかれとてなんにもいわぬ。打って打って背部がやぶれても眼をつぶって歯を食いしばり気絶しても口をひらかない。副長の土方歳三もほとほと手にあまし、いろいろ工夫した結果、まずは古高の両手をうしろへまわしてしばり梁へさかさにつるしあげた。それから足の裏へ五寸釘をブツリイととおし百絵mろうそくを立てて火をともした。みるみるろうが流れて熱鉛のようにトロトロのやつが古高の足の裏から脛のあたりへタラタラとはっていく。このしつっこい残忍な苦痛にはさしも決死の古高もさすがにたえかねたとみえ、小半時ばかりもだえ苦しんだすえにようやく口をひらいて同志の秘策をもらした。
池田屋で志士たちが会合しているということは、近藤勇の手紙では事前に池田屋で会合が行われるということはわかっていたように書かれていましたが、永倉新八の回顧録では、探索の結果、池田屋で会合しているを発見したようです。
古高の自白どおり長州人を狩りたてようと手をわけてかたっぱしから調べていく。祇園通りから三条通りとすすんでいったがひとりも見当たらない、ところがふと三条小橋のあたりの池田屋惣兵衛方をのぞくとはたして20余名の長州藩士がより合ってなにごとか擬議の最中であることがわかった。
【池田屋突入の様子】
また、池田屋に踏み込んだときの様子も書かれています。
こちらは近藤勇、隊員を二手にわかち、池田屋の表口と裏口をかためさせ、屋内へは隊長近藤が先にたって、沖田、永倉、藤堂の三人をしたがえてツカツカすすむ。
やはり、池田屋に踏み込んだのは、近藤、沖田、永倉、藤堂の4人のようです。この後、近藤勇たちが踏み込み、志士たちと激しく戦う様子を書いています。
階段の上にたった近藤勇はそれとみて炬(きょ)のような大眼をかっと見ひらき、「無礼すまいぞ」とにらみつけた。その勢いにのまれてか抜刀をかついだまま、20余名の志士は身をおどらして屋根から飛び下り、中庭のあっちこっちと逃げまわったが、階下には沖田、永倉、原田の3人がひかえてむくものは切りすてんと身構える。(中略)
そうこうするうちに沖田が大奮闘のさいちゅうに持病の肺患が再発してうち倒れたので、眉間に負傷した藤堂とともに表へだしてしまう。のこるは近藤と永倉のただふたり。
こうして奮闘しているうちに土方隊が到着し戦いに参加し新撰組が優位になり、戦いが終わります。
戦いの後、壬生に凱旋をしましたが、 凱旋の様子は次のように書かれています。
すっかり形がついてから近藤勇は隊員を二列としてひきあげたが、このさい壬生までの沿道は数万の人垣で雪崩をうち、藤堂は釣台で永倉は敵の血を全身にあびたままものすごいありさまで人びとのたちさわぐなかをゆうゆうとひきあげた。
意気揚々と引き上げた様子がわかります。
以上が、池田屋事件に関係する部分の一部を抜粋しました。
永倉新八の墓(上の写真)は、JR埼京線「板橋」駅の東口から徒歩2分程度の場所にあります。
ここには、 近藤勇が斬首された板橋刑場の跡地で、永倉新八が建てた近藤勇と土方歳三の墓もあります。

