「酢屋」は海援隊の京都の拠点でしたので、今日は海援隊について書いてみます。
【酢屋が海援隊の拠点となった理由】
右の写真は、酢屋の店先に建てられている「坂本龍馬寓居之址」の碑です。最初に「酢屋」が海援隊の京都の拠点になぜなったのかということについて書いてみます。
その理由はハッキリしたものはわかりません。
しかし、酢屋は、京都の土佐藩邸の出入り商人で、土佐藩邸に材木を納めていました。
このように「酢屋」は土佐藩と商売上の取引関係がありました。また、高瀬川を利用した海運業も営んでいました。海援隊は海運業が本業ですので、こうした点も海援隊にとって都合がよかったものだと思います。
また、海援隊は、土佐藩の傘下にありましたが、土佐藩の組織ではなく、外郭組織という位置付けでした。これは土佐藩に危険が及ぶ場合には、海援隊を切り放す考えもあったためとも言われています。
そのため、海援隊の拠点を、土佐藩邸に置くより、藩邸外に置くメリットが土佐藩にもあったと言われています。
【海援隊は、土佐藩の外郭組織】
次に、海援隊という組織はどういうものかについて書きます。
海援隊については、中公文庫の平尾道雄著「坂本龍馬 海援隊始末記」を参考にさせてもらいました。
海援隊の前身となったのは有名な「亀山社中」です。亀山社中は、神戸海軍操練所の解散に伴い、慶応元年、薩摩藩の援助を得て長崎の亀山において結成されました。
薩摩藩からは月々3両2分の生活費が給付されたといいます。
坂本龍馬は、今で言う商社をつくり貿易を行うとともに海軍・航海の技術を練磨するねらいがありましたが、ビジネス活動を通じて薩長の手をにぎらせるのが当面の目的であったといわれています。
武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で長州へ流すなどの斡旋を行い、また、物資の輸送や航海訓練なども行い、第二次長州征伐においては下関海戦に従軍したりしました。
しかし、亀山社中は、ユニオン号問題が起きたり、ワイル・ウェフ号が転覆するなどして、慶応2年夏には経済的に行き詰まり、解散寸前の危機にありました。
坂本龍馬は、一時期、亀山社中の解散を考えたとも言われています。
こうした亀山社中の苦境の時期に、坂本龍馬と土佐藩の参政であった後藤象二郎は、慶応3年正月の長崎清風亭で会談します。この会談で坂本龍馬と後藤象二郎は勤皇開国論とくに海上貿易を志すという考えで一致しました。
同じ年3月には、土佐藩大監察であった福岡藤次(のちの福岡孝弟)が長崎に到着し、後藤と福岡の相談により海援隊と陸援隊が土佐藩の外郭組織として位置づけられました。
そして、慶応3年(1867)4月には坂本龍馬は、脱藩が許されて海援隊長となりました。
陸援隊は慶応3年7月、中岡慎太郎を隊長として組織されています。
しかし、慶応3年11月15日に、京都・近江屋で坂本龍馬が陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに暗殺されると海援隊の力は弱くなり、長岡兼吉が慶応4年4月土佐藩より2代目海援隊長に任命されましたが、同年閏4月27日には土佐藩藩命により解散されられました。 長岡兼吉は1ヶ月ほどの短い間の隊長でした。

