池田屋に集合していた尊皇攘夷派の志士が何人であったのか正確なところはわかりません。そして、誰がなくなった人かについても、本によりいろいろ書かれています。
そこで、今日は右の写真のように「池田屋はなの舞」の前に置かれていた説明板に書かれていた殉難者一覧を書いておきます。殉難者は次の通りと書かれていました。
【池田屋騒動での殉難者たち 】
1、宮部鼎蔵 (肥後藩)
2、北添佶摩 (土佐藩)
3、大高又次郎 (播磨林田藩)
4、松田重助 (肥後藩)
5、吉田稔麿 (長州藩)
6、広岡浪秀(長州藩の神職)
7、杉山松助(長州藩】
8、望月亀弥太 (土佐藩)
9、石川潤次郎 (土佐藩)
10、福岡祐次郎 (松山藩)
以上の他、説明板には、古高俊太郎と池田屋惣兵衛が被害者に加えられていました。
近藤勇は7人を討ち取ったと手紙に書いていますが、「はなの舞」の説明では10人になっています。
長州藩出身者のほか、意外にも土佐藩出身者が多いのに驚きます。
それでは、代表的な人物について略歴を書いていきます。
【宮部 鼎蔵(みやべていぞう)】
肥後熊本藩士で、代々医師の家系に生まれ、叔父である宮部増美の養子となりました。 山鹿流軍学を学び、30歳で熊本藩に召抱えられました。
長州藩の吉田松陰と出会い、嘉永3年(1850)に東北旅行に一緒に旅行しています。
文久元年(1861)、肥後勤皇党に参加し党の中でも中心的な人物となりました。
文久2年(1862)、清河八郎の九州遊説の折、八郎に面会しています。
その後、宮部は上京し、尊攘活動に奔走するようになります。しかし、8月18日の政変後、長州藩へ入ったのち、翌年には再び上京し、潜伏しつつ尊皇攘夷の活動に奔走している最中に池田屋事件に遭遇します。宮部は自刃しました、享年45歳でした。
【吉田 稔麿(よしだ としまろ)】
萩藩松本村に足軽吉田清内の嫡子として生まれました。
吉田松陰の松下村塾に入門し、松下村塾四天王の一人に数えられる俊英でした。
松下村塾四天王とは、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一を言います。
万延元年(1860)10月に脱藩するも、文久2年(1862)には脱藩の罪を許され、文久3年(1863)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加しました。
その後、京都にのぼり、池田屋事件に遭遇し、吉田も死亡します。
新撰組と斬りあい討ち死したとも、長州藩邸の門前で自刃したという説など諸説があります。享年24歳でした。
【望月 亀弥太(もちづき かめやた)】
土佐藩士で、文久元年(1861)、武市半平太の尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862)10月、山内容堂に従って上洛します。
文久3年(1863)には、藩命を受けて勝海舟の下で航海術を学び、その後、神戸海軍操練所へ入所するが、元治元年(1864)、藩より帰国命令が出されたため脱藩して長州藩邸に潜伏していました。
そして、長州藩の過激尊皇志士達と交流を続けていたため、池田屋事件に遭遇しました。
池田屋を脱出した望月は長州藩邸の門前で自刃したといわれています。享年27歳でした。
【北添 佶摩(きたぞえ きつま)】
土佐藩高岡郡の庄屋北添与五郎の五男に生まれました。16歳で庄屋職をつぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となります。
開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863)、土佐を脱藩し、江戸へ出ました。
その後、坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたと言われていますが、それにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ行き、池田屋事件に遭遇しました。享年30歳。
北添佶摩は本山七郎という変名がありました。本山七郎は、子母沢寛の「新撰組始末記」で、階段を駆け上がってきた近藤勇に斬られ階段を転がりおちる「階段落ち」で有名だそうです。
しかし、実際は池田屋を逃げ出した後路上で殺害されたという説もあるようです。

