今回の京都旅行は、この近江屋跡を見にいくことが大きな楽しみでした。
近江屋跡は、阪急の「四条河原町」駅から、河原町通りを北に3分ほど歩いたところにあります。
近江屋は、当時は醤油屋でした。 当主の新助は安政6年(1859)に22歳で家業をついで、まもなく土佐藩の御用商人になったといいます。その「近江屋」の跡は現在はコンビニエンスストア「サークルK」になっていました。
時代の変化にびっくりすると同時にちょっと失望感を感じた瞬間でもありました。
そのコンビニの前に「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」と刻まれた碑が建てられていました。
右写真の左下に写っています。
近江屋は土佐藩出入りでした。土佐藩邸は、近江屋の東側にありました。江戸時代には、高瀬川に面して門があり、高瀬川には土佐橋という橋がかかっていたそうです。
藩邸跡は立誠小学校になっていましたが、この小学校も平成4年に廃校となってしまいました。
小学校の正門近くの高瀬川沿いに「土佐藩邸跡」の碑が建っていました。
また、近江屋の向い側100メートルほど南に行ったお店の前には「中岡慎太郎寓居跡」の碑もありました。ここは、中岡慎太郎が住んでいた土佐藩出入りの書店「菊屋」の跡と言われています。
現在は「象」というあぶらとり紙のお店になっていました。
坂本龍馬が暗殺されたのは、慶応3年11月15日 いみじくも龍馬の誕生日でもありました。
坂本龍馬は暗殺当日は、近江屋の2階で暮らしていました。
11月9日に京都に入った龍馬は「酢屋」に宿泊しましたが、13日に近江屋に移りました。
そして、襲撃を警戒して、近江屋の土蔵に隠れていましたが、風邪を引いたため、土蔵では寒いので、2階に移ったといわれています。
15日の夜、中岡慎太郎が訪ねてきて 面談しているところ、十津川郷士を名乗った何者かが訪ねてきました。
暗殺犯は、来客の取次ぎをした藤吉を殺害した後、坂本龍馬と中岡慎太郎を襲撃しました。
坂本龍馬は即死し、中岡慎太郎は重傷をおい2日後の11月17日になくなりました。
坂本龍馬暗殺の情況はすでに昨年書きましたので詳しくはこちらをご覧ください。
龍馬暗殺は誰①
龍馬襲撃 (龍馬暗殺犯は誰②)
同志駆けつける (龍馬暗殺犯は誰③)
暗殺の様子は、本で読んでいて、それなりにわかっていましたが、実際に現地をみると、「酢屋」「近江屋」「土佐藩邸」「菊屋」が、それぞれ至近距離にあることがよくわかりました。ばにあることがよくわかりました。
赤印が「近江屋跡」、緑印が「土佐藩邸跡」、青印が「中岡慎太郎寓居跡」です。

