八木家は、前川家と異なり、現在も続いています。
八木家は、文久3年3月から慶應元年(1865年)夏、西本願寺に移るまで新撰組の屯所でした。
この八木家での最大の出来事は、芹沢鴨の暗殺です。八木家の奥座敷で、文久3年9月18日、芹澤鴨、平山五郎が斬殺されました。
芹沢鴨は、本名は下村嗣司と言います。近藤勇とともに、新撰組の局長を務めていましたが、乱暴狼藉が多かったため、京都守護職からも殺害命令が出されていたともいいます。
この時の様子を、八木家の案内の人が説明してくれました。
新選組は島原の角屋で宴会を開き、芹沢鴨は大い酒を飲みました。
その後、芹沢鴨は平山五郎・平間重助と八木家へ戻り、芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋の吉栄、平間の馴染みの輪違屋の糸里を交えて八木家で再度宴会を開きました。
宴会の後、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると、芹沢と平山は同じ部屋で女たちと一緒に寝ました。平間は別の間で女と一緒に寝ました。皆が寝静まったころ、庭先に隠れていた土方歳三、沖田総司ら数人の男たちが、突然、芹沢の寝ている部屋に押し入り、芹沢に斬りつけました。
驚いた芹沢は飛び起きて応戦しようとしますが対抗できず、八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込み逃げようとしましたが、刺客たちによって殺されてしまいました。
芹沢が隣の部屋で躓いたという文机が展示されていました。また、刀傷も鴨居に残されていました。
この時に芹沢と一緒に寝ていたお梅も殺され、同室で寝ていた平山が殺害されましたが、平間は逃亡したそうです。この暗殺には、近藤勇は加わらず、アリバイを作っていたそうです。そして、芹沢鴨を暗殺したのは尊王攘夷派だとされ、翌々日には、新撰組として芹沢鴨と平山五郎の葬儀を行ったそうです。
右上の写真は、八木家の庭です。案内の人の説明では、ここに刺客が潜んでいたそうです。
ところで、案内の人の説明では、八木家は戦国大名の朝倉家の一族だったそうです。
朝倉氏が織田信長に滅ぼされ後、壬生村に居を構え、姓も八木に変えたそうです。
そのため、八木家の家紋も朝倉氏と同じで、三つ木瓜だそうです。
座敷に掲げられていた家紋も確かに三つ木瓜でした。
壬生では、村の経営や壬生狂言に携わり、代々村の行司役をも勤めていたそうです。
現在の当主は16代目です。
八木家に入場するには1000円の料金が必要でした。入場料としては高いなと思いましたら、抹茶とお菓子つきでした。
実は、八木家は、家の前で、「御菓子司 京都鶴屋」という和菓子屋を営んでいます。
一番上の写真で、右側に見えるのが「京都鶴屋」です。奥が八木家への入口になります。
現在の会長で15代目当主八木喜久男氏が和菓子の商売を始めたそうです。
八木家の見学終了後、京都鶴屋で「屯所餅」を味わうという趣向でした。
抹茶と屯所餅が味わえたので少し高めの入場料も納得がいきました。

