私は、電車が停まってしまったため、帰宅は深夜になってしまいましたが、それ以外は大きな影響はありませんでした。
さて、ほーりーの出版記念イベントの記事の後を受けて、「龍馬暗殺」の記事にまた戻りたいと思います。
さて、前回は、龍馬暗殺は、京都見廻組の仕業で、直接の暗殺犯は桂早之助だという木村幸比古氏の説を紹介しましたが、暗殺は京都見廻組が実行したが、①暗殺の判断は佐々木只三郎単独という犯人佐々木説、②直接の暗殺犯は渡辺篤であるという説があるので、今日は、この二つの説を紹介します。【犯人佐々木只三郎説】
犯人佐々木只三郎説を書いているのは、維新史研究家伊東成郎氏です。
その結論は
①標的は坂本龍馬のみ。中岡慎太郎は巻き添え
②直接実行犯は、京都見廻組
③黒幕はいなくて、佐々木只三郎の独自判断によるもの
というものです。
佐々木只三郎は、会津藩士出身、神道精武流を修得した剣豪です。文久3年(1863)には江戸赤羽橋で清河八郎を暗殺しています。
清河八郎を暗殺した翌年、京都見廻組に参加しています。
伊東氏は、佐々木只三郎率いる京都見廻組の一団は、佐々木只三郎のある重大な正義感のもと、あくまでも坂本龍馬一人を狙って、捕縛は考えずに近江屋に突入したと推定します。
薩長両藩を結びつけようとするフィクサーとしての坂本龍馬を、幕府至上の佐々木只三郎にとっては断じて容認できなかったはずであり、さらに龍馬の寺田屋脱出後は、佐々木只三郎のその思いは一層強くなったと思われると伊藤氏は書いています。
そして、佐々木只三郎は清河八郎の暗殺と同じように粛々と履行したと推測しています。
【犯人渡辺篤説】
犯人渡辺篤説を書くのは、歴史家の石田孝喜氏です。
結論は
①標的は坂本龍馬のみ、中岡慎太郎は巻き添え
②実行犯は京都見廻組、衝撃した人数は今井信郎によれば7名、渡辺篤によれば7名もしくは6名
③命令者は見廻役か京都守護職の松平容保
というものです。
龍馬襲撃に加わった京都見廻組の隊士のうち維新後まで生き残ったのは、今井信郎と渡辺篤です。
このうち今井信郎には、箱館で降伏した後、明治3年に龍馬殺害の刑事犯として供述した「刑部省口書」があり、渡辺篤は明治13年6月付けの「履暦書原本」で坂本龍馬襲撃の様子を記録しています。
大正4年、渡辺篤がその死に臨んで、坂本龍馬を斬ったと言い残し、「渡辺家由緒暦代系図暦書」を公表するよう遺言しました。
渡辺篤は、今井信郎の供述書が世に出ていない時期に2度にわたって龍馬襲撃の様子を記述してありました。
石田氏は、今井信郎の刑部省での口述が公になる以前に龍馬暗殺を自白した「履暦書原本」がある以上、渡辺篤犯人説を否定できないとしています。
また、次のようにも書いています。
佐々木只三郎以下の京都見廻組士の行動は、現代風にいうと、警察庁長官の命令で、政府の転覆を図る暴徒の逮捕に出動した京都市警察機動隊の取り締まり行為であった。この点から考えると、京都見廻組士たちは犯人でにもなんでもなく、彼らの行動を犯行とは言いがたい。彼らにとっては当然の任務遂行であるから、あえて手柄を表明することもなく、やがて政権のドンデン返しの事態とともに一転負われる立場に立とうとは夢にも知らなかったであろうと書いています。
前回の話とあわせると、京都見廻組犯人説を採る人が多いように思います。
坂本龍馬の写真は、国立国会図書館所蔵です。

