この説を書いているのは、作家の阿井景子氏です。
阿井景子氏の結論は
標的は、中岡慎太郎
実行犯は、京都見廻組
命令者は 幕府要職者
というものです。
阿井景子氏が、標的が龍馬ではなく、中岡慎太郎だと考えるのは、中岡慎太郎のほうがはでな動きをしていたからだと言い、思想も、龍馬が和の構えに傾いた龍馬と異なり中岡慎太郎は一貫して武力討伐であったと言います。
中岡慎太郎は、他藩士からも「土佐武断党の中心となりて、当時の大立者なり」と評されていました。
それにもかかわらず、幕府に逮捕されなかったのは、名前を次々と変えていたためで、中岡慎太郎は5度も名前を変えているのは、それだけ危険だったからだろうと阿井景子氏は推測します。
ラジカルで大胆な中岡慎太郎が幕府要職者の目にとまらないはずはありません。
勝海舟が名前を挙げている榎本対馬守かどうか確認できないが、それに近い幕府要職者が命令し、幕府要職者の「御指図」を受けて出動した京都見廻組の佐々木只三郎らは、11月15日に、中岡慎太郎を尾行したのではないかと阿井景子氏は推測しています。
11月15日、八ツ(午後2時ごろ)白川の陸援隊本部を出た中岡慎太郎は、河原町四条上ガルの菊屋を訪ね息子の峯吉に薩摩藩への使いを頼んだ後、谷守部(干城)の下宿に立ち寄りますが、谷が不在のため、六ツ半(午後7時ごろ)坂本龍馬がいる近江屋に到着しました。
坂本龍馬を訪ねたのは、三条大橋制札事件で逮捕された宮川の処置を、土佐藩大監察の福岡藤次(孝弟)から任された中岡慎太郎は、宮川を陸援隊に引き取る考えで龍馬と協議するために近江屋を訪問しました。
そして、龍馬と中岡慎太郎が話している時に、十津川郷士を名乗った人物が近江屋を訪れます。そして、偽の手札を出して、「先生に面会したい」旨を申し出ます。
阿井景子氏は、訪問客が「先生」といっただけで固有名詞を述べていないのが、中岡慎太郎を標的にしたと考える根拠に一つであるといっています。
こうして、訪れた人物たちは2階に上がり、協議中であった中岡慎太郎と坂本龍馬に躍りかかりました。
阿井景子氏は、京都見廻組の今井信郎や渡辺篤の証言から、この襲った人物たちを京都見廻組と考えています。
そして最後に次のように述べています
「見廻組は中岡を標的にしたことで、龍馬も惨殺することができた。思いがけない収穫に彼らは喜びを抑え切れなかったにちがいない」
いままで、坂本龍馬の暗殺犯は誰かということについてのいろいろな説を紹介しました。
幕府側の京都見廻組や新撰組説、味方と思われている倒幕派の薩摩藩や長州藩、さらには非常に親しくしていた身内とも言うべき後藤象二郎や中岡慎太郎説、その他紀州藩説などもあります。 そして、今日紹介したように、標的は坂本龍馬ではなく中岡慎太郎だったという説まであります。
こんなに諸説あるということは、坂本龍馬の人気の高さを表しているのかもしれないと感じました。