この麟祥院については、既に「麟祥院(大奥ゆかりの寺)」で紹介しましたので、こちらをご覧ください。
そして、今日はそこで触れなかった話題となる麟祥院の別名「枳殻寺(からたちでら)」について紹介します。
麟祥院は、別名「枳殻寺(からたちでら)」とも呼ばれていました。
それは、境内の周囲に枳殻(からたち)の木を植えていたから、そう呼ばれました。
でも、現在では、「枳殻寺(からたちでら)」とういう名前はあまり聞きません。
しかし、夏目漱石の「三四郎」の中に「枳殻寺(からたちでら)」とう名前が出てきます。
東大の通称「三四郎池」で初めてミネコにあったすぐ後で、三四郎池で野々宮君に逢い、野々宮君から「これから本郷のほうを散歩して帰ろうと思うが君どうです、いっしょに歩きませんか」と誘われて、三四郎は野々宮君と歩き始めます。
その後の場面で
「二人はベルツの銅像の前から枳殻寺(からたちでら)の横を電車の通りに出た」
と書かれています。
夏目漱石の「三四郎」は、明治41年9月1日から12月29日にかけて117回にわたって朝日新聞に連載されました。
ですから、明治41年当時の東京の人々は、東大そばの「枳殻寺(からたちでら)」と言えば「麟祥院」とすぐにわかったのだと思います。
それほど、明治の頃には、「枳殻寺(からたちでら)」という麟祥院の別名はポピュラーだったんだろうと思います。
ところで、この文の中に出てくる「電車の通り」は、現在の「春日通り」です。
当時は、東京市電が通っていたため「電車の通り」と呼ばれていました。
この「春日通り」という呼び名も「春日局」に由来する名前です。