東大キャンパスは、江戸時代には、加賀藩、水戸藩、富山藩、大聖寺藩のお屋敷でした。
本郷キャンパスの中心を占める部分は加賀藩上屋敷、そして東側の東大病院の部分は、加賀藩前田家の支藩である富山藩と大聖寺藩の上屋敷、農学部のある弥生キャンパスや浅野キャンパスが水戸藩中屋敷でした。
本郷の加賀藩江戸藩邸は、江戸時代の初めに、元和2年(1616)また元和3年(1617)に拝領し下屋敷として発足しました。
加賀藩の上屋敷は、江戸時代初めの慶長10年~明暦3年(1605~1657)は、大手門の前の辰の口に、その後の明暦3年~天和3年(1657~1683)は筋違橋門内ににありました。
その後、5代将軍綱吉の時代 天和3(1683)年 に上屋敷となりました。
それ以降の加賀藩の江戸藩邸は中山道に沿ってあり、中屋敷は現在の文京区駒込、六義園の近くに、下屋敷は現在の板橋区にありました。下屋敷の跡地には加賀町という名前が現在残っています。
【赤門の正式名称は御守殿門】
東大の象徴といえば「赤門」です・
「赤門」は正式には「御守殿門(ごしゅでんもん)」といいます。
文政10年(1827)加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、11代将軍徳川家斉の娘溶姫(ようひめ)を正室に迎えることになりました。この時に建立されたのが「赤門」です。
江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居(おすまい)といい、その御殿の門を朱塗りにしました。
三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際は、奥向きの住まいは御守殿と呼ばれました。
その御守殿の門であることから正式には御守殿門と呼ばれます。しかし、朱塗りの門であることから通称で赤門と呼ばれました。
赤門は、加賀藩だけが許されたわけではありませんが、御守殿門は一代限りで対象となる人物がなくなると再建を許されないので、東大の赤門は御守殿門として唯一残された門です。
【赤門は格式の高い門】
赤門は、 建築様式は切妻作りの薬医門という形式で、左右に番所があります。
右写真の黒い建物が番所で、門を警護する人たちが詰めていました。
両脇に番所がある門の形式は10万石以上の大名にだけ許される格式の高いものです。
門の屋根上部の棟瓦は葵の紋、軒の丸瓦は前田家の家紋梅鉢となっています。
鬼瓦には大学の学という字が刻まれています。
前田家は菅原氏の出身と称しています。そのため、前田家の家紋は天神様の神紋と同じ梅鉢紋となっています。
赤門は明治10年に東京大学に移管されました。元は現在地より15メートル東にありましたが、明治36年校舎建設のため現在に移転しました。
幸いなことにその後の関東大震災や空襲も免れ、昭和36年に解体修理され、現在は国の重要文化財に指定されています。
赤門は東大を象徴する建物ですので、ここで記念撮影する人が多いです。