朱舜水という人は、江戸時代初期に日本に亡命した中国明末の遺臣で儒学者です。
名は之瑜(しゆ)、字は魯 王與(ろよ)、号は舜水(しゅんすい)、号の舜水は郷里の川の名からとったそうです。
中国浙江(せっこう)省に生まれ、明国に仕えました。しかし、清が興隆してきたため、支援を請うため、長崎にも7回来訪しましたが、7度目に来日した万治2年(1659)からは長崎に住んでいました。
水戸藩主の徳川光圀は小宅(おやけ)生順を長崎に行かせ、朱舜水を招こうとしましたが、初め応じませんでした。
その後、寛文5年(1665)にようやく招きに応じて水戸藩の江戸藩邸に入りました。朱舜水66歳のときです。
住居は水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)内に準備され、徳川光圀の先生として待遇されました。水戸も二度訪れています。
そして、水戸光圀や安積澹泊(あさかたんぱく)、林鳳岡(ほうこう)、木下順庵らに大きな影響を与えました。
朱舜水から教えを乞うた安積澹泊(あさかたんぱく)は「大日本史」の編纂で有名ですが、『水戸黄門』に登場する格さん(渥美格之進)のモデルとされています。
朱舜水は天和2年4月17日83歳で没しました。
墓は光圀の命令によって水戸家の瑞竜山墓地(常陸太田市)に儒式で建てられているそうです。
朱舜水の与えた影響は多方面にわたりますが、小石川後楽園の設計にも影響を与えたと言われています。
また、水戸光圀は日本ではじめてラーメンを食べたと言われていますが、これも朱舜水の影響によるものといわれています。
朱舜水の記念碑は日本渡来 250年祭にあたり朱舜水記念会が建てたものであると説明板に書かれていました。