【三十六歌仙絵】
三十六歌仙は、平安時代の藤原公任が優れた歌人36人を選んだものです。
万葉歌人として柿本人麿、大伴家持、山辺赤人の3人が選らばれており、平安歌人から33人が選ばれています。
平安時代の有名な歌人としては、紀貫之、在原業平、小野小町らがいます。
三十六歌仙絵は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、鎌倉時代から江戸時代にかけて盛んに行われました。
この須賀神社の三十六歌仙絵は天保7年に画かれたものです。
横40センチ、縦64センチの黒縁の額に入っています。
絵は社殿の四方に掲げられています。右の写真は社殿の中を撮影したものです。
正面と右側に掲げられている額が「三十六歌仙絵」です。
正面の右端に柿本人麿、その隣が紀貫之の絵があります。
そして、正面真ん中に、右から順に大伴家持、山辺赤人、在原業平の絵があります。(左下写真をご覧ください)
小野小町は左側の壁にありました。
【大岡雲峰】
絵は大岡雲峰(当時73歳)(天保7年)の作で、歌は千種有功(ちぐさありこと)の書です。
大岡雲峰は旗本で、本名は大岡成寛といいました。
大岡雲峰は、須賀神社の近くの四谷大番町(現大京町)に住んでいました。柳川藩士の家に生まれ、のちに旗本大岡家の養子となりました。
高芙蓉(こうふよう)、谷文晁らに画を学び文人画家として活躍しました。
大岡雲峰ですが 現在では無名の画人ですが、斎藤月岑が『武江年表』で、次のようにコメントしていてますので、当時は谷文晁と並ぶほどの評価だったのだと思います。
(筠庭云う)再発してあらはれしは、大岡成寛、春木南湖などあり。されど雲峯は勤仕によりて画を廃したる間に、文晁は盛りにして大家となれり。初めは文晁・成寛・馬孟熈(ばもうき)、伯仲の間にいはれしものなりしが、其の内にも馬孟熈すぐれたり。(以下略)
ところで、大岡雲峰の師匠の谷文晁は有名ですが、もう一人の師匠高芙蓉は知らない人が多いと思います。私も詳しくは知りませんでしたので調べてみました。
高芙蓉は、中国人のような名前ですが日本人です。本名は大島氏、通称は逸記です。
甲斐国高梨に医師の子として生まれ、高氏の称はこの地名に、芙蓉の号は幼時に見慣れた富士山(芙蓉峰)にちなむといわれています。20歳のころ京に出て儒学を学び、池大雅らとも交流します。詩文書画にも優れていましたが、特に篆刻が優れていて、「印聖」とよばれているそうです。