須賀神社の後は、須賀神社の南側にある「首切り浅右衛門」こと山田浅右衛門のお墓がある勝興寺にいきました。
山田浅右衛門は、初代から9代目までいますが、そのうち6代目山田浅右衛門吉昌と7代目山田朝右衛門吉利が勝興寺に眠っています。
勝興寺と山田浅右衛門については 勝興寺 で書いています。
勝興寺のあとは長谷川平蔵の菩提寺であった戒行寺に行きました。
戒行寺は長谷川家の菩提寺であったのでお墓がありましたが、現在はありませんで、参道に、長谷川平蔵の碑が建てられています。
戒行寺については、戒行寺と長谷川平蔵 に書いてありますので、そちらご覧ください。
さらにその後には西応寺を訪ねました。
西応寺に幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客といわれる榊原鍵吉の墓があります。
それについては、源清麿と榊原鍵吉 で書いています。そちらをご覧ください。
【本性寺毘沙門堂】
さて、今日は、その後に訪ねた「本性寺(ほんしょうじ)」について御案内します。
本性寺についても、本性寺と萩原宗固 で書いていますが、今日は、毘沙門堂の内部についてご案内します。
毘沙門堂については、事前にお寺にお願いすれば内部を見させたいただけるということでしたので、事前にお願いしておきましたので、ご住職がお待ちになっていました。
本性寺の毘沙門堂は、戦災で焼け残った貴重な建築物です。
毘沙門堂の内部はかなり広く、正面に毘沙門天が安置されていました。
この毘沙門天が、江戸城内にあって、徳川家康が伊達政宗が謀反を起こさないよう祈願するために北向きに安置したので、北向き毘沙門天といわれている、毘沙門天様です。
毘沙門天の写真を内陣から撮るのは禁止ということなので、遠くから撮りましたので、残念ながらはっきりとは写っていません。
北向毘沙門天が安置されている御堂は土蔵造りとなっています。
この土蔵の壁に、見事な鏝絵(こてえ)が描かれていました。
この鏝絵は、毘沙門堂が造られた時期と同じとのことであり、元禄時代に造られたものです。
作者名が刻まれていますが、作者は特定されていないそうです。
左側の扉には龍が、右側には虎が刻まれています。
左官技術もずばらしいものでした。また色彩も鮮やかでした。
また、手前の部屋の天井には、墨絵の龍が描かれています。
御住職の話では墨絵の龍も毘沙門堂造立期と同じ頃に書かれたものだそうです。
ただ、龍の下で、長いこと火鉢を使用していたため、天井が乾燥してしまっているのが残念だと言われていました。
でも、龍の絵の素晴らしさは変わらないように思いました。
ご住職さんありがとうございました。貴重なものを見させていただきました。
なお、毘沙門堂の裏には萩原宗固のお墓があります。
萩原宗固は、愛染院にお墓のある塙保己一の先生です。
こちらについても 本性寺と萩原宗固 で書いてあります。