正式には「多武峰内藤神社」と言います。
住宅街の中にあるうえに、鳥居には神社の南側にあり四谷四丁目交差点から行くと神社の裏手側を歩くことになります。
【多武峰神社】
この神社は、もともと、高遠藩内藤家の下屋敷内にあった神社です。
内藤清成が内藤新宿に土地を拝領する以前からあった祠を寛政5年(1793)、12代頼以が再興し邸内の鎮守としたと言われています。
多武峰神社そのものを勧請したと書かれている場合もありますが、神社の説明には、藤原鎌足を祀ったと書かれていて少しニュアンスが違いますがいずれにしても、多武峰神社の主祭神は藤原鎌足です。
内藤家が藤原秀郷の末流と言われているため 、藤原氏の家祖である藤原鎌足を祀ったのです 。
それが、明治5年に、内藤家の屋敷が大蔵省に収公された際にここに移転しました。
当時は、武州多武峰神社と呼んでいましたが、昭和42年5月に多武峰内藤神社と改称されました。
【駿馬塚の碑】
境内に駿馬塚の碑があります。
内藤清成の駿馬伝承に出てくる白馬を供養するため文化13年に建てられたものです。
内藤家の駿馬伝承とは次のような話です。
天正18年(1590)の江戸入府に際して功績のあった内藤清成に対して徳川家康は、清成の持っている白馬で一息に回れる範囲の土地を与えることにしました。
内藤清成は白馬にまたがって疾走し、現在の新宿御苑を含む、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷という広大な土地を囲い込みました。しかし、白馬は疲れ果てて死んでしまったと伝えられています。
ここが、内藤家の下屋敷となりました。(なお、新宿の屋敷を、内藤家の中屋敷と書いている本もあります。ただ切絵図では下屋敷となっているので下屋敷と書きます。)
【内藤清成】
この伝承に出てくる内藤清成が、高遠藩内藤家の藩祖です。
内藤清成は、内藤忠政の養子となり、19歳で家督を継ぎました。
徳川家康の小姓を務めたこともあり、徳川秀忠の傅役(もりやく)を任されました。
家康が江戸に入った後、内藤清成は関東総奉行や老中などを歴任し、江戸幕府創世記に重要な役割を果たしました。
しかし、内藤清成が継いだ内藤家は分家筋です。
内藤家は、徳川家康の天下取りに功績があったため、江戸時代に各地の大名となりました。明治維新の時には6家ありました。
すなわち信濃高遠藩、陸奥湯長谷藩、三河挙母藩、日向延岡藩、信濃岩村田藩、越後村上藩です。
このうち内藤家宗家とされているのが日向延岡藩の内藤家です。
延岡藩の石高は7万石でした。これに対して、新宿に下屋敷を構えた高遠藩内藤家は3万3千石でした。
この小藩である高遠藩が、内藤新宿に20万坪の屋敷を構えられたのは、なにか特別の理由があるような気がします。
そした疑問を、内藤家の菩提寺である太宗寺のご住職に質問しました。
ご住職も同じような疑問をお持ちのようでしたが、詳しいことはわからないという回答でした。しかし、内藤清成と徳川家康との間には、単なる主従関係以上の何かがあったので、これだけ広大な敷地を賜ったのではないかという趣旨のことをお話しくださいました。