「心法寺」というお寺はあまり有名ではないんですが、私たち江戸検1級2期会の仲間の中では、増上寺や寛永寺と同じくらい名前が知れ渡っているお寺です。
というのは、江戸検1級合格早々に、ホテルニューオータニさんから江戸城外堀ガイドの依頼があった時に、案内先に入っていたお寺です。 心法寺は、千代田区内で江戸時代から続く墓地のある唯一のお寺であること、村垣淡路守や井沢弥惣兵衛のお墓があることで江戸通の中では有名なお寺でした。そのために、江戸城外堀ガイド先に選ばれていました。しかし、当時は、さすがの1級仲間でもほとんどの人が知らないお寺でした。
このことがきっかけで、1級仲間内で「心法寺」は一気に有名になり、現在では、「心法寺」といえば、すぐにあぁあのお寺とわかるお寺の一つとなっています。
【千代田区唯一の江戸時代からあるお寺】
さて、その心法寺は、もともとは推古天皇の時代に、三河国で「秦宝寺」として創建されたお寺と言い伝えられているそうですが、江戸麹町に創建されたのは、慶長2年(1597)です。江戸の地は、北と南は比較的深い谷で区切られていて、東は海に面していました。しかし、西側は武蔵野台地がなだらかに続くだけで、防衛上手薄でした。
そのため、西方の防衛線を強化するために、寛永13年に外堀工事が行われ、江戸城の西側の外堀が築造されました。
その際に、外堀の内側にある寺院の多くが外堀の外に移転を命じられました。
そのため、千代田区内には、江戸時代の初めに創建されたお寺はほとんどありません。
その中で、心法寺は千代田区で江戸時代はじめに創建されたお寺であり墓地もある唯一のお寺です。
心法寺には、右上の写真の銅鐘をはじめ文化財がかなりありますが、あまり紹介されることの少ない村垣淡路守範正と井沢弥惣兵衛のお墓を今回はご案内します。
【村垣淡路守の墓】
村垣範正(むらがきのりまさ)は、万延元年に日米修好通商条約批准書交換のため幕府がアメリカへ派遣した使節団いわゆる万延元年遣米使節の副使を勤めました。なお、この時の正使は新見正興、目付は小栗忠順です。
村垣家は、もともと、お庭番の家柄です。範正の代に別家として取り立てられることとなり、天保2年(1831)に小十人格(こじゅうにんかく)庭番となりました。安政元年には、勘定吟味役として、川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、下田(しもだ)に来航したロシア使節の応接係を担当しました。
安政3年(1856)には箱館奉行となり、さらに安政5年(1858)には外国奉行となり、翌年神奈川奉行も兼帯しました。
外国奉行兼神奈川奉行であったため、遣米使節の副使に任命されました。
アメリカに無事到着した一行は、ブキャナン大統領に謁見し批准書を渡した後、大西洋を横断し喜望峰を通過しインド洋を通って帰国しました。
この功績により、村垣範正は300石の加増を受け合計500石となっています。
真ん中のお墓が村垣範正のお墓と言われていたお墓ですが、別人で、範正の祖父定行の墓です。
平成25年5月1日追加訂正
上記、村垣淡路守範正の墓と言われていた墓が、祖父の村垣定行の墓とのことで、日比谷図書文化館から下記のような修正依頼がありました。村垣淡路守範正の墓は谷中天王寺にあるようです。
史跡説明板の記載修正
麹町六丁目4番地2の常栄山心法寺門前に設置している説明板「心法寺」の記述について、次のとおり、誤記載がありました。
(誤記載の内容)
村垣淡路守は、遣米副使を勤めた村垣範正ではなく、その祖父にあたり勘定吟味役・松前奉行・勘定奉行を歴任した村垣定行でありました。
関係者の皆さまには、大変ご迷惑をおかけしました。平成25年度に、説明板を修正いたします。
説明板からの引用により、「心法寺に村垣範正の墓所がある」という内容の記事を掲載されている方は、修正をしていただきたく、お願いいたします。
【井沢弥惣兵衛の墓】
井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)は、名前は為永(ためなが)といい、8代将軍吉宗の下で大きな実績を挙げた江戸時代屈指の治水家です。
紀州藩士でしたが、徳川吉宗(よしむね)が将軍就任した後、幕臣となりました。享保7年(1722)に幕府の勘定所に召し出され、享保16年(1731)には勘定吟味役、享保20年(1735)には美濃国郡代にも就任して活躍しました。
吉宗に重用され、享保の改革の際に治水、農業開発に敏腕を発揮し、紀州流の開祖といわれます。
特に埼玉県の見沼代用水(みぬまだいようすい)60キロメートルを完成させ、農業開発・水運に大きなな貢献をしました。
また、木曽川三川分流の宝暦治水も井沢弥惣兵衛の設計だそうです。
赤印が心法寺 青印が番町小学校 です。心法寺は四ツ谷駅からは徒歩3分の至近距離です。

