今日は 平河天満宮をご案内します。
【平河天満宮の由来】
平河天満宮は、慶長11年(1606)から現在の地にお祀りされています。
もともとは、文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと言われています。この江戸城内の天満宮のまわりには、多くの梅の木が植えらたため梅林坂と呼ばれるようになりました。今も皇居東御苑内に梅林坂の名が残っています。また、同じく東御苑内に天神堀という名前も残っています。
江戸城内の天満宮は徳川家康の江戸城入城後間もなく、築城のため平川門外に遷座されました。
さらに、慶長12年(1607)2代将軍秀忠の時代に麹町貝塚(現在地)に遷座されました。
この辺りの地名が平河町と呼ばれるのは平河天満宮に因むものです。
なお、平河と書き、平川ではありませんので、ご注意を!
【平河天満宮銅鳥居】
平河天満宮の銅鳥居は、高さ5mにもなる鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に建設・奉納されたもので、千代田区内最古の鳥居だそうです。

また、製作者について千代田区教育委員会の説明板に丁寧に説明されていますので、その部分を書き抜きます。
銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。
「西村和泉」というのは、「文政年鑑」に「御鋳物師 西村和泉 並御錺(かざり)師かんたかち丁1丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。
彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した8代目であると思われます。
なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家5代目当主・西村和泉藤原政平によって作られた作品です。ただし、平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。
【狛犬】
また、本殿前の狛犬についても丁寧な説明がありますので、こちらも抜書きします。
本殿向かって右側の石像(右写真)の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。一方左側(左下写真)にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第18編)には、この銘文が収録されています。
これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、同5年にこれらを補修して再設置した、とのことです。「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に「紫宸殿賢聖(けんじょう)障子」といわれるものであると思われます。
「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。
日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。
平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径10cm、深さ5cmほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば狛犬」(左側)と「「獅子」(右側)との対になっているといえます。
【常夜灯】境内には、常夜灯もあります。
この常夜燈は、本来、左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げたものです。高さ約3.45m、幅・奥行ともに1.26mだそうです。
装飾は、火袋の左面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅鉢の文様が付いています。
この常夜灯は、麹町8丁目(現在の麹町5丁目)にあった雲龍堂と松田町(現在の鍛冶町2丁目)にあった龍海堂という寺子屋の関係者から、嘉永5年(1852)閏2月に奉納されたものです。
赤印が 平河天満宮 です。

