さて、徳川実紀のうちの「家康公伝1」は本文が140ページ程です。
文章も現代語訳されていますので、読みやすくなっています。
「家康公伝」の中で、江戸文化歴史検定受験にあたって注目しておくべき点と私が勝手に思うことを今日から順に書いていきます。
今日は、徳川家康の兄弟について書きます。
徳川家康は兄弟がないと思っている人も多いと思います。確かに家康には父母を一緒とする兄弟はいませんでした。 しかし、異母兄弟や異父兄弟は大勢いました。
家康の父は、ご存知の通り、松平広忠です。そして母は水野忠政の娘の於大の方(伝通院殿)です。
家康は、松平広忠と於大の方の間で生まれた唯一の子供です。
しかし、広忠は於大の方以外の妻もありました。そして、於大の方は、松平広忠に離縁された後、久松俊勝と結婚しています。
そして、それぞれ、子供をもうけていますので、家康にとっては異父兄弟や異母兄弟がいます。
【広忠の子】
「家康公伝」には、「広忠の子」について
松平広忠には徳川家康のほか男子が一人、女子が三人いたと書いています。
男子は家元のち康元、生来足が弱く世に出て人と交わることはなかったと書かれています。
長女は、多劫姫(たけひめ)、次女は市場殿、三女は矢田姫と言ったと書かれていました。
この他、福釜松平親良(ちかよし)、桑谷(くわがい)松平忠政、内藤豊前守信成(のぶなり)も実は広忠の子であると伝えられていると「家康公伝」に書かれています。
松平親良、松平忠政の経歴はよくわかりませんが、内藤信成は、内藤清長の養子となり、享保年間以降、越後村上藩を領した内藤家の藩祖となった人物です。
【久松松平家】
この他、於大の方は久松俊勝と結婚した後に男女数多くの子供をもうけました。男の子たちは3人でした。
男の子は、因幡守康元、豊前守康俊、隠岐守定勝です。
家康は、桶狭間の戦いの直前に、於大の方と面会を果たし、於大の方のそばに並んだ3人を異父兄弟として仲間にしたと「家康公伝」に書かれています。
この一族は、久松松平家と言われ、長男康元は関宿藩主、次男康俊は駿河国久能城主、三男定勝は桑名藩主となりました。さらに定勝の子供たちは、長男定行が松山藩主、次男定綱が桑名藩主、三男定房が今治藩主、四男定政が刈谷藩主となりました。
家康も異父・異母とは言いながら兄弟姉妹はけっこういるんですね。
上の写真は、於大の方の菩提寺である伝通院です。
於大の方については明日書きます。