【家康の祖母 於富】
三河国刈谷城主の水野忠政は、大河内(おおこうち)左衛門尉元綱の養女であった於富(おとみ)をむかえて妻としました。
忠政は、はじめ松平昌安の娘を妻としてむかえ、長子の信元とほかに一女(松平家広室)を得ていましたが、離婚して大河内元綱の養女であった於富をむかえたのでした。
於大は、この於富の2番目の子として生まれました。
於富は、於大たちを生んだ後、離縁となり養父の大河内元綱のもとへ帰っていましたが、三河の岡崎城主松平清康のもとへ再度嫁がされました。
松平清康の妻ははじめ松平昌安入道の娘でしたが離別し、青木貞景の娘をめとったが、広忠を生むとともに没したので、そのあとに於富が迎えられたと「家康伝」には書かれています。
【家康の母 於大】
天文10年(1541)に於大は広忠に嫁ぎました。
松平家には、先代清康に母の於富が嫁いでいましたので、於富と広忠とは義理の親子 、広忠と於大は義理の兄妹でした。
天文11年12月、於大は岡崎城内で男子を生みました。幼名竹千代といった家康です。
於大は、鳳来寺峰の薬師如来に祈願し7日満願の夜、薬師12神将の寅神(迷企羅大将)を授けられた様子が見られてから妊娠したなどの吉兆が見られたと伝えられています。
竹千代が3歳の時、於大の父水野忠政が病死しました。
その子水野信元は、織田家に属することにきめました。そこで、広忠は、今川氏からの圧迫をおそれ、於大を離別することにしました。
於大はこうして3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されました。
於大が刈谷に帰される際の逸話が「家康公伝」に書かれています。
於大の方は松平家の武士に護衛されて水野家に送り返されることとなりました。
途中まで来た時、於大は護衛の武士に「速やかに私を置いて引き返すように」と言いました。武士たちが理由を聞くと、於大の方は次のように答えました。
「兄の下野守信元は気の短い人なので、きっと怒って、あなたたちを斬り捨ててしまうか髪を剃って辱めるかもしれない。両家はいつか和睦するでしょう。今、兄がみんなを成敗すれば将来の和睦の妨げになります。ともかく、ここで引き返しなさい」と言いました。
護衛の武士たちはやむなく言うことに従って、土地の者に輿を渡して別れましたが、それでもやはり心配なので山林の陰に隠れて様子をみていました。しばらくして鎧兜で完全武装した武士たちが2、30人、於大を迎えに現れました。
水野家の武士たちは「送ってきた侍は全員討ち捨てよ」という信元の命令を受けてきているので、於大の方にお送りの岡崎の侍たちはどうしたのかと問うと、彼女は「松平家の者たちは引き返したのでもういない」と答えました。すると水野家の武士たちは輿を守って力なく刈谷に帰りました。
同じ時期に、於大の姉が嫁いでいた形原松平の紀伊守家広も、広忠にならって妻を刈谷に送り帰しました。
この時、水野信元は大いに怒って、送りの者を一人残さず斬って捨ててしまいました。
この結果、於大の思慮深さを褒めないものはいなかったと「家康公伝」に書かれています。
於大の方は、刈谷に帰った後、知多郡阿古居城(阿久比町)の城主久松俊勝と再婚し、子供を数多く(6人と書いてある本もあります)もうけました。
男子3人は異父弟として、家康が大事にした話は昨日書きました。
於大の方は、長生きし、家康の天下統一を見届けて、関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)に74歳で伏見城でなくなりました。
家康は於大の方の死を悼み、京都の智恩院で葬儀をおこない、江戸に遺骸を送り荼毘に付した後、伝通院に納骨しました。
墓は、小石川伝通院にあります(右上写真)。また、伝通院の本堂西側にある観音堂の中にある休憩所には、於大の方の像もあります(左中写真)。
ちなみに伝通院は於大の法名からとった院号です。