姉川、三方原、長篠の戦いの要因について書いた部分に次のように書かれています。
「姉川、三方が原、長篠の三つの大戦は、当家においてもっともつらく苦しく危険な事態であったが、その実際は足利義昭の謀略から発生しており、朝倉、武田などを自分のよこしまな計略に利用して、天下の権力を奪い取ろうとするものであった。
すべて等持院将軍(足利尊氏)以降、室町家(足利家)は人の力を借りて功をなし、その功が成ったその後は、また別の人間の手を借りて先の功臣を除くという方法を、永久に変わらない方法として用いて国を運営することが習慣となっていた。
15代の間、そのための智を用いないものはなかった。ついにその智のために、家も国も失ったことはどうして天の定めた運命でないといえようか。」
徳川実紀は、当然のことながら、徳川幕府の立場から書かれていますので、この評価が、現代からみて正当かどうかは議論のあるところだとは思いますが、江戸時代に、徳川幕府が足利将軍家をどう評価していたかわかります。
ところで、「徳川実紀」の読み方についてですが、編者の大石学氏は、 解説の中で、
「徳川実紀は、徳川幕府の立場から、儒学思想をもとに編纂されている点で、読むさいには相応の注意が必要である」と書いています。
また、同じように、解説の中で、佐藤宏之氏は次のようにも書いています。
徳川氏に関する研究は江戸時代にすでに始まっていた。その過程で作成された歴史書は、徳川将軍家の支配を正当化し、幕藩体制を維持する立場にたっていたといえる。(中略)こうした江戸時代の歴史書が有する傾向を新行紀一は「松平中心史観」と称した。その「松平中心史観」の集大成が「東照宮実紀」であるといえよう。
※新行紀一(しんぎょうのりかず)氏は愛知教育大学名誉教授です。
こうした点を踏まえて「徳川実紀」を読む必要もあります。
上の写真は等持院です。等持院は、足利尊氏が夢窓国師を開山として創建したお寺で、尊氏の死後、その墓所となり 、足利将軍家の菩提寺となりました。