「松平氏8代」とは、初代親氏から8代広忠までの次の系譜を云います。
初代 親氏 → 2代 泰親 → 3代 信光 → 4代 親忠 → 5代 長親 →
6代 信忠 → 7代 清康 → 8代 広忠 この後、徳川家康に続きます。
この系譜を始め、徳川家や松平家について詳しく書いたのが「徳川・松平一族の事典」(東京堂出版;工藤寛正氏著)です。
これを読むと、徳川将軍15代をはじめ、各松平家の来歴がよくわかります。
徳川将軍家の礎となった松平氏は、三河国松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)から始まりました。
そもそも、松平郷は開拓領主の在原信盛が現在の松平東照宮境内に屋敷を構えて支配し、その子信重が開拓を進めました。
ある時時宗の遊行僧の徳阿弥がこの地を訪れて信重の婿となって家督を相続し松平親氏と名乗りました。
徳阿弥(すなわち松平親氏)は源氏嫡流源義家の孫新田義重の子供の得川義季の後裔と伝えらえていますが、出自・来歴はよくわかりません。しかし、彼が、徳川家の始祖と呼ばれています。
右写真が松平東照宮です。徳川家康と松平親氏をお祀りしています。
2代は泰親です。親氏は松平家の勢力拡大を図り親氏の後は親氏の子供が幼いため、親氏の弟泰親が家督を相続しました。泰親は、親氏の子供信光を従えて三河国岩津城を攻め落とし岩津城を居城としました。
3代は信光です。信光は泰親の後を継いで、西三河の要衝安祥城を奪取します。ついで岡崎城も奪取します。こうして勢力を広げ、西三河の大半を治めました。
信光は、親氏の次男ですが、この時から信光の系統が松平宗家となりました。
4代は親忠です。信光の三男4代親忠は安祥城を居城として西三河を治め、宗家の基盤を盤石のものとするとともに徳川家の菩提寺として名高い大樹寺を文明7年(1475)に創建しました。開山は勢誉愚底上人です。
5代は長親です。5代長親は家督相続後3年で隠居してしまいました。
6代は信忠です。信忠が後を継ぎましたが、家督相続をめぐり内紛がおこりました。そこで、信忠の子供清康に家督を相続させました。
7代は清康です。清康は武勇と慈悲を兼ね備えた武将で、岡崎城に移り東三河を攻略し、三河全域を治めました。しかし、尾張の織田信秀を攻撃中に尾張の守山の陣中で家臣に殺され、松平勢は総崩れになりました。(これを「守山崩れ」といいます。)
清康没後、織田信秀により岡崎城を攻められますが、松平勢は守り通しました。
8代は広忠です。清康の子供広忠は清康が殺害された時10歳でした。家督相続をめぐり一族の中で争いが起こり、広忠は流浪の身となりました。その後広忠は岡崎城に戻り家督を相続したが、松平氏の三河支配は弱体化しました。
その広忠の子供が徳川家康です。
次回に十八松平について書こうと思いますが、それを書くためには、松平氏8代の歴史を書いておく必要がありますので、今日は、松平氏8代の歴史を簡単に書きました。
次回は、「十八松平」について書きます。