そのため、西念寺には、岡崎信康の供養塔(右下写真)があります。
この西念寺(左下写真は西念寺の本堂)を案内した時に、徳川家康は、信長から築山殿と信康を処分するように要求されて、結果として築山殿を殺害させ信康に切腹させましたが、家康の本当の気持ちは、そうではないという説があるということが話題になりました。
このことについて「家康公伝」に書かれていましたので、今日は、このことを書きたいと思います。
一般的には、信康の妻となった信長の娘徳姫と築山殿の仲が大変悪く、徳姫が父親の信長に、築山殿と信康が武田勝頼に内通していると訴えたことにより、信長が築山殿と信康の処分を要求してきたと言われています。
この件について「家康公伝1」では次の内容が書かれています。
武田勝頼が謀略をめぐらし、築山殿が勝頼が仕組んだ計画にはまってしまい、よくないことが起き、8月29日小藪村で亡くなられた。 (中略)
信康君もこれに連座し、9月15日に、二股城において切腹された。これはみな織田右府の命令だという。
この部分について、次の注意書きがされていると書かれています。
「野中三五郎重政が築山殿を討つように命じられたので、やむえず討ち浜松へ立ち返り報告すると家康が「女のことであるから他の仕方もあったのに、考えも浅く討ちとったか」とおしゃっると、重政は大いに恐縮し、以後蟄居したと家伝に見える。それによると家康には深い考えがあってのことだろう」
また、信康の傅役であった平岩親吉とのやりとりも書かれています。
平岩親吉が浜松にいって、本当に信康の行状がよくなかったとしても、それは私の指導が悪かったのだから私の首を刎ねて信長に差しだして欲しい」と言いました。
これに対して家康は「お前の首を刎ねて三郎が助かるならば、お前の言葉に従うが、三郎は結局逃れられないのだから、お前の首まで斬って恥を重ねることは悔しい、お前の忠義はいつまでも忘れない」というと涙を流したお泣きになったので、親吉は重ねていう言葉もなく、泣く泣く御前を退いたという。
さらに、次のように書かれています。
信康が勘当された当初、大久保忠世に預けられたのも、深い考えがあってのことであったが、忠世は理解しなかったか。その後、幸若舞の一節にある「源光仲がその子美女丸を討つように命じた時、その家臣仲光が我が子を討ち、これに替えたという舞をご覧になって、家康が忠世に「よくこの舞をみよ」とおっしゃり、忠世は大いに恐縮したという説がある。
こう書いた後に、「どうだろうか。真実かどうかはわからない。」と書いてあります。
「家康は、本当は築山殿や信康を殺したくはなかった。どうにかして助けたいと思った。しかし、家康の本音を推測できなかった部下たちが、命令のとおりに実行したので、二人とも死ぬこととなってしまって、家康はがっかりした。」ということのようです。しかし、徳川幕府でさえ、信康切腹の真実はわからないということのようです。
ちなみに、服部半蔵は、信康の介錯を命じられましたが、その役を果たせず、家康に逆に評価されたと言われています。