松の内も明けたので比較的落ち着いていました。
喜多院は平安時代に創建された古刹で、江戸時代には天海僧正により徳川幕府の帰依を受け大いに繁栄しました。
喜多院については、昨年正月にブログに3回にわたり書きましたので、詳しくは 「喜多院」 をご覧ください。
折角、川越に行きましたので、埼玉県の指定有形文化財となっている「川越城本丸御殿」(下写真)を見てきました。
江戸時代末期の嘉永元年(1848)に、時の城主松平斉典(なりつね)によって建築されたものです。
本丸御殿については詳しくは明日書きますが、今日は、川越藩の歴史を書きます。
徳川家康が、関東に入国した際、左衛門尉家(さえもんのじょうけ)の祖である酒井重忠が1万石で川越に配置されます。
酒井家はもとをただせば松平家の親戚である譜代の名門で、徳川家康を助けて天下取りに重要な役割を果たした家柄です。
松平家の初代親氏が三河に流れてきた時に松平家の婿となる前に酒井家の婿となり酒井清親をもうけました。
清親の子供の氏忠の子孫が、その本家筋にあたります。本家筋は左衛門尉家(さえもんのじょうけ)と呼ばれます。
この系統が徳川四天王の一人である酒井忠次を出した家です。
その分家筋が雅楽頭家です。氏忠の弟家忠から始まっています。
重忠は別家として、家康から取り立てられました。。
その雅楽頭家の酒井重忠が配置されたということは川越を徳川家康も重視していたことの表れといえます。
酒井重忠が前橋に転封された後は、酒井重忠の弟の忠利が藩主となりました。
酒井忠利は、雅楽頭家の分家として取り立てられ、この系統はのちに、忠利の子供の忠勝が若狭藩に転封になった後は小浜藩の藩主となり明治まで続きます。
酒井家はじめ歴代の川越藩の藩主は次のようになります。赤字は大老(または大老格)や老中となった藩主です。
酒井雅楽頭家(本家) 酒井重忠
酒井雅楽頭家(分家) 酒井忠利 ⇒ 忠勝(老中のち大老)
堀田家 堀田正盛(老中)
大河内松平家 松平信綱(老中) ⇒ 松平輝綱 ⇒ 松平信輝
柳沢家 柳沢吉保(大老格)
秋元家 秋元喬知(たかとも:老中) ⇒ 秋元喬房(たかふさ) ⇒
秋元喬求(たかもと) ⇒ 秋元凉朝(すけとも;老中)
越前松平家 松平朝 (とものり) ⇒ 松平直恒(なおつね) ⇒
松平直温(なおのぶ) ⇒ 松平斉典(なりつね) ⇒
松平典則(つねのり) ⇒ 松平直侯(なおよし) ⇒
松平直克(なおかつ;政事総裁職)
※政事総裁職は幕末に設けられた役職で従来の大老にあたります。
初代政事総裁職は松平春嶽です。
松井松平家 松平康英(やすひで;老中) ⇒ 康載(やすとし)
見ていただいてわかるように親藩や譜代の有力な大名が配置されました。
そして藩主は老中になった者も数多くいます。21人の藩主のうち老中を6人出しています。
大老または大老格となった藩主は3人います。
このように幕閣の有力者を輩出した川越藩主になることは譜代の名誉でもあり憧れでした。