皆さんは三方領知替えということをご存知でしょうか。
徳川幕府は、大名を転封させる権限を持っていましたので、諸大名を必要に応じて転封させました。
その転封は2家が絡むものが通常でしたが、転封に3家がからむこともありました。
それが三方領知替えです。
江戸時代、三方領知替えが数回行われましたが、その中で最も有名なものが、天保11年に行われた三方領知替えです。
これは、川越藩 ⇒ 庄内藩 ⇒ 長岡藩 ⇒ 川越藩 というふうに3大名を転封させようとしました。
つまり、武蔵国の川越藩主松平斉典を出羽国の庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封しようとしたものです。
この三方領知替えは、庄内藩の領民が大反対したため、実現しませんでしたが、三方領知替えの中で最も有名なものです。
この三方領知替えを画策したのが、後年に川越城本丸御殿を建設した松平斉典でした。
松平斉典は、川越藩の第4代藩主です。第2代藩主松平直恒(なおつね)の四男として生まれました。
実兄で第3代藩主の松平直温(なおのぶ)が22歳で死去したため家督を継ぎ、将軍徳川家斉から偏諱を授かり斉典となのりました。
川越藩主となった松平家は、越前藩主であった松平秀康の四男直基が初代となっています。
この直基系越前松平家は度重なる転封により借財が多額のものとなっていました。
松平斉典はこの借財をなんかしないといけませんでした。
そこで、斉典は川越藩を継ぐと、農村復興を中核とする財政再建にただちに取りかりました。
しかし、それだけでは不十分だったので、根本的な解決のために川越より財政状態の良い場所に転封することで、斉典は借財を整理しようと考えました。
そこで、この転封をやりやすくするため、第11代将軍徳川家斉の二五男の斉省(なりさだ)を養子にとりました。
斉省( なりさだ)の母親は家斉の側室の「お以登の方」でした。「お以登の方」は大勢の側室をもっていた家斉が最晩年に愛した側室で、男子3人女子2人の子供をもうけました。
男子は、斉省の兄斉善(なりさわ)は越前藩松平家に養子となり藩主となりました。弟の斉宣(なりこと)は明石藩松平家に養子に行き、藩主となりました。
文政8年(1825年)に松平斉典は斉省を養子としましたが、斉典には後継ぎとなるべき男子がいましたが、それを抑えての養子縁組だったそうです。
そして、斉省の実母・お以登の方を通じて大奥にも画策し、天保11年(1840)庄内藩への転封が成功しました。
しかし、庄内藩の領民は、この領知替えに猛烈に反対しました。藩内の各地の村で、村役人の指導の下、村民が一揆を起こしたのです。
これ題材に藤沢周平が書いた時代小説が「義民が駆ける」です。
また、この一揆の一部始終を克明に描いた「夢の浮橋」という絵巻も残されています。
そして、翌年の天保12年閏1月に家斉が没すると諸大名の間でもこの問題に対する批判が高くなりました。 そして、同年7月に12代将軍徳川家慶の判断によって三方領知替えは中止されました。
この三方領知替えの騒動の最中、斉省(なりさだ)は天保12年(1841年)5月に家督を継ぐことなくなくなりした。
本丸御殿が完成して2年後の嘉永3年(1850)に斉典がなくなった後は、典則(つねのり)が藩主となりました。
斉典のお墓は喜多院の境内のなかにあります。
喜多院の本堂の南西の一角に、松平大和守家の墓所があります。
その墓所には、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりのり)、直侯(なおよし)と5人のお墓があります。
しかし、東日本大震災の影響で墓地に入ることが禁止されていました。
左写真は、墓所外からとった斉典のお墓です。