まず最初は、浅草寺の本堂の西側の影向堂(ようごうどう)の前にあります。
浅草寺のHPには「六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)」と書かれています。
石幢とは何かと思い、インタネットで調べると「石塔の一。六角または八角の石柱と、仏龕(ぶつがん)・笠・宝珠などからなる。中国から渡来し、日本では室町時代以降のものが多い」と書かれていました。
台東区発行の「下谷・浅草 史跡をたずねて」という案内書には「六地蔵石灯籠」と書かれています。こちらの方がわかりやすい命名だと思います。
この石灯籠が建立された年代は不明ですが、、一説によれば、久安2年(1146)に源義朝が浅草寺に参拝した折に、重臣の蒲田政清によって建立されたといわれます。
1.8メートルほどの高さがあります。
もとは雷門の東方の花川戸にあったもので、明治に23年になって現在地へ移されました。
浅草寺には、もう一つ六地蔵があります。
本堂の北西に「銭塚地蔵堂」があります。
この「銭塚地蔵堂」は堂内の四角い石塔の上に石の六地蔵尊が祀られています。
しかし、堂内にお祀りされていますので、よく見ないとわかりません。
銭塚地蔵堂については、以前浅草寺の案内の中で書いていますので、銭塚地蔵堂(浅草寺ツアー⑨) をご覧ください。
もう一つは回向院の六面六地蔵石幢(せきどう)です。
回向院本堂の東側にある鼠小僧次郎吉の墓のそばにあります。
この石幢は、高さが約230センチメートルあります。
六角柱の各面に瑞雲に乗った地蔵菩薩像が半肉彫りされています。
それぞれの地蔵菩薩の姿も鮮明に知ることができます。
墨田区教育委員会の説明には
この石幢には、回向院第17世得行の名号、地蔵本願経の偈頌(げじゅ)、さらに安政2年(1855年)10月2日の大地震と翌年8月25日の大水の様子が刻まれています。
これらの災害の犠牲者の供養のために、安政4年8月22日に建立されました。
なお、願主は横山同朋町(現中央区東日本橋)の某氏で、他に造立者は八丁堀(現中央区八丁堀)の6人、石工は浅草平右衛門町(現台東区浅草橋・柳橋)の伊豆屋藤助です。 と書かれています。
この他にも、石柱に刻まれた六地蔵はあると思いますが、有名寺院のものを紹介しました。