①大高城への兵糧入れの成功と②大高城からの引き上げです。
2つとも18歳でありながら沈着冷静に行動し指揮をとる家康の様子が書かれています。
永禄3年(1560)5月に今川義元は兵を率いて上方に向かいました。
そして、5月19日桶狭間で織田信長の奇襲により命を落としました。
【大高城への兵糧入れの成功】
大高城は鵜殿長助長持が守っていました。しかし、織田方は大高への通路を遮断したので、城中の食糧は乏しくなってしまいました。義元は城中に兵糧を送ろうと思いましたが、この任務を引き受ける者は一人もいませんでした。
すると家康はわずか18歳でこれを引き受けました。
そして、 家康は、大高城近くの丸根・鷲津などの砦を攻めずに、はるか遠くの砦を攻めさせ、丸根・鷲津の砦の城兵が砦の援兵にいき手薄となった隙になんなく兵糧を大高城に送ることに成功しました。
酒井、石川などの老臣がどうやってこうした功績をあげられたのか聞くと
家康は「ただ大高に兵量を入れようとだけ思えば、丸根。鷲津などの城兵が、みんな大高に馳せ参じて防ごうとするだろう。だから両城に押しよせて敵兵をおびき寄せ、そのすきに乗じて兵糧運び入れたのだ、「近きを捨てて遠きを攻める」は兵法の定道であり、必ずしも奇巧とするにふさわしくない」と言ったといいます。
【大高城からの引き上げ】
今川義元は、尾張に出陣するにあたって、家康を鵜殿に替えて大高城を守らせました。
義元が桶狭間で織田信長に討たれた時、家康はその噂を聞いていましたが、真偽の程がはっきりしませんでした。この時、家康の母の於大の方の兄である伯父の水野信元から「義元が討たれた、今川方の城はみんな明けけ渡された。家康も早く城を捨てて本国に帰られよ」と伝えてきました。部下たちも家康に明け渡しを勧めた。しかし、家康は「水野信元は親族ではあるが、今は織田方に属しているので、その言葉は信じがたい。もし、その言葉が嘘であったら、武門の恥である。味方が信じるにたる情報を待つ」といって、ひたすら守りを固めました。
しばらくした後、岡崎城を守っていた鳥居忠吉から、詳細が伝えられ、今川義元から岡崎城に付けられていた者も引き上げたということなので、「そうであるならば、大高城も引き払え」と言って、「月が出るのをまって引き上げる」と言ました。家来たちは一刻も早く引き上げようと思っていましたが、家康は悠然としていました。
そして出立の時刻になると、古例に基づき、難所ごとで松明を振るように命じ、上下30人ほどの兵士を随えて、要害に一人ずつ残して、遅れて来る者に道を知らせて、途中で一揆の人たちを追い払いながら無事に岡崎まで帰えりました。
これを聞いた今川方の武将たちは、自分たちの行動を比較して恥ずかしく思い、織田信長は行く末たのもしい大将であると称えたそうです。