今日と明日は、「一向一揆との戦い」について書きます。
戦国時代には、浄土真宗いわゆる一向宗の力が増し、各地で一向一揆が起こりました。
最も力が強かったのが北陸地方で、加賀は一向宗が支配するほどでした。
この一向一揆が三河でも起こり、徳川家康を苦しめることになりました。
永禄6年9月、菅沼定顕が上宮寺に兵糧を強制的に徴発しました。これに対して、松平広忠が認めていた「不入権」を侵害された上宮寺は、勝鬘寺、本証寺とともに菅沼屋敷に押しよせ狼藉を働きました。
これに対して家康は詰問状を突き付けたところ一向宗側は詰問状をはねつけ一揆を起こしました。
上宮寺、勝鬘寺、本証寺は三河三箇寺と呼ばれ一向宗の中心寺院です。
右写真は、本証寺です。現在の安城市にあります。
この一揆側には、上野城主松平忠尚、足利一族の東条城の吉良義昭、家康の異母妹市場姫の夫荒川義広らも加わりました。
そして、有力門徒である石川、本多ら家康の家臣で、一揆側に加わったものもいました。
東照宮実紀本編の現代語訳すなわち「家康公伝1」では「小坂井、牛窪の新しい要塞に兵糧米を備蓄することになったが、御家人たちが上宮寺から籾をむやみに取り入れたので、一向専修の門徒たちは突然蜂起することがあり、譜代の御家人のなかにはこれに味方するものが少なくなかった」と書いてあります。
しかし、一揆側に加わった門徒は弱小の小領主が多かったようです
それに対して、一向宗の門とでも有力門徒は家康方につきました。有力門徒は家康の重臣でもありました。
石川家成、石川数正、本多重次、本多忠勝、内藤清長、天野康景らは、宗派を浄土宗に改宗して家康につきました。
一揆方は結束が固く、死も畏れないうえに、門徒の三河武士まで加わったので、一揆側は強力でした。
家康は、必死になって戦いました。
永禄7年1月、一揆側は、家康の本城岡崎城攻撃をめざして、岡崎城の南方にあり大久保一党が守る上和田城攻め立てました。
この上和田の戦いで、一揆側が多勢で攻め寄せてきて、味方が苦戦に陥った時には、家康は自ら単騎で出馬し味方を救いました。
徳川実紀の逸話編によると「家康の冑に銃弾2発が飛んできたが、鎧が堅かったので突き通さなかった」と書いてあります。
この和田城の戦いを機に、家康は一揆側を追い込み、一揆側から和議の申し出がありました。家康は和議を結び、半年間続いた一揆は鎮圧されました。
家康は、この後、和議を反故にし、一揆衆を完全に解体させた後、一向宗の寺院に他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破壊しました。こうして19年後の天正11年(1583年)まで、三河での一向宗を禁止しました。
また、一揆を煽動した酒井忠尚、吉良義昭らは三河国外へ逃亡しました。
この戦いは、家康にとって大きな試練でしたが、この戦いに勝利したことによって三河統一の基礎をしっかりと固めることができました。