すべて、紹介できないので、主なところを要約して紹介します。
姉川の戦いでは、最初は、織田軍は朝倉軍にあたるという配置になっていたが、当日未明になり、浅井軍には信長が向かうので、家康は朝倉軍に向かってもらいたいと伝えてきた。酒井忠次は断りましょうといったが、家康は急ぎ陣を立て直し朝倉軍に向かったという。
この戦いの先陣は酒井忠次、小笠原長忠、菅沼 定盈(すがぬま さだみつ) などが、向こう岸が高くて上りかねていると、ニの手に備えていた榊原康政が先陣を追い越して先に進もうとした。すると酒井の兵が遅れを取るまいと競い合ううちについに岸を上ることができて勝利を得た。 家康は、ニの手はこのようにあってほしいと言った
そして、戦いのはじめ、朝倉軍の先鋒が勝っていることには目もくれず、すぐに敵の二、三の陣の間の少し の隙間に、横から討ちかからせたので、敵(朝倉軍)は内から崩れて、総敗軍となった。
織田家の備えは、初め浅井勢によって斬り伏せられ、すっかり負け戦の様子を呈していたところ、家康の軍勢が朝倉勢に勝利した勢いで浅井勢の横からせめたので、織田勢もこれに力を得て備えを立て直し、ついに織田・徳川が勝利をおさめた。信長の感状には、「今日の大功は言葉にできないほどであり、先代に比類ないほどである。後世にも武勇を争うものは現れまい」などと書かれていた。
徳川公伝では、徳川軍が強かったことが強調されすぎているように思います。
しかし、姉川の戦いは実際は、こんなに大規模ではなかったという説があります。
家康公伝の解説で、鹿児島大学の佐藤宏之准教授は次のように書いています。
『江戸時代に記された軍記物や姉川の戦いに参加した徳川家家臣の家譜などに「徳川軍が朝倉軍を破ったから姉川の戦いは勝った」と記され、それが史実として受けとめられてきた。しかし、姉川の戦いはこれまで語られてきたような大規模な戦いではなく、もっと小規模な戦いではなかったたかと指摘されている。そこにも「松平中心史観」が透けて見えるのである。』
それでは、姉川の戦いはどうだったのだろうかと思い、インターネットで調べてみましたら、朝日新聞の記事がありました。
朝日新聞によれば、長浜市長浜城歴史博物館の太田浩司学芸員は、姉川の戦いは大規模な合戦ではなく、浅井軍が奇襲をしかけた小規模な戦いだったと考えている と書かれています。
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さらに調べてみると、姉川の古戦場の説明板(上の写真)にも、『姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられています。』と書かれています。
姉川の戦いについて以前から不思議に思っていたのは、織田軍は13段に構えていたといいますが、その13段のうち11段も破られるほど織田軍が弱かったのかということでした。逆をいえば、浅井軍がそれほど強かったのかということでした。
徳川軍の強さを強調するため、浅井軍が織田軍を111段も破るほど非常に強かったと強調し、その浅井軍を破った徳川軍は、もっと強かったというように構成したと考えれば、姉川の戦いは大規模な戦いとされて浅井軍が非常に強く描かれる理由もわかるような気がします。

