今回の定例会は、「鬼平と勝海舟の住まいを巡る」というタイトルで、鬼平と勝海舟のゆかりの地を訪ねました。
今日は、勝海舟のゆかりの地について書いていきます。
ご存じのように、勝海舟は、青年まで本所で暮らし、24歳以降は赤坂で暮らしました。
定例会は、赤坂から始まりましたので、青年になってからの住まいをまず秋山太兵衛さんにご案内いただきました。
【みすじ通りの勝海舟旧宅跡】
勝海舟が、結婚してから赤坂に転居して、最初に暮らした住まいが、赤坂田町にありました。現在のみすじ通りに面していたとのことでした。
勝海舟は、蘭学を筑前藩黒田家の永井青崖に蘭学を学んでいました。
永井青崖は赤坂に住んでいましたので、本所から通っていましたが、海舟が結婚した後、24歳の時に赤坂に転居しました。
そして、自分の住まいで私塾「氷解塾」を開きました。
勝は貧乏でしたので、辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写して、1部は自分のために使用し、1部は売ってお金にしたそうです。
【氷川下の勝海舟旧宅跡】
次いで住んだのが、氷川下でした。幕臣として活躍した時代は、この屋敷に住んでいました。
その屋敷跡のレストランの前に説明板も設置されていましたが、レストランの前で説明を聞きました。写真の右端がレストランです。
ここには安政6年(1859)37歳のから明治元年(1868)の46歳まで約10年間住んでいました。
勝海舟は、安政6年の6月にここに住み始めましたが、翌年正月には、咸臨丸でアメリカに渡っていきました。
その時期は桜田門外の変が起きた頃で、桜田門外の変が起きた時は、時海舟はサンフランシスコにいました。
また、坂本龍馬が海舟を訪ねてきたのもここにあった屋敷でしたし、西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷に出かけたのもこの屋敷でした。
そして明治元年46歳のときに、徳川慶喜に従って静岡に移るまでここに住んでいました。
【旧氷川小学校の勝海舟旧宅跡】
赤坂で最後に暮らしたのが、旧氷川小学校です。ここで勝海舟が晩年を過ごしました。
石碑と説明板の前で説明を聞く参加者たちです。
明治になって、海舟は駿府に転居します。海舟は明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまでここに住み、海軍卿、枢密顧問官、伯爵として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。
この屋敷は元旗本柴田七九郎の屋敷だったそうです。
【勝海舟揺籃の地】
赤坂から鉄砲洲・石川島・菊川と鬼平ゆかりの地を観ながら最後に本所まで移動しました。
ここが、海舟が青年時代を過ごした場所です。
勝海舟が生まれたのは、現在の両国公園です。両国公園には勝海舟生誕の地の碑がたっています。
そして、その後、本所を転々とします。そして海舟7歳の時に住んだのが岡野孫一郎の屋敷内と言われています。結婚して赤坂に転居するまでの間ここに住んでいました。
その屋敷があった近くの坂田建設の玄関に「勝海舟揺籃の地」の碑がたっています。
その前で、秋山氏から説明がありました。
以上、2日間にかけて、定例会の様子を書きました。新しい発見があり楽しい定例会でした。秋山さんありがとうございました。