記録として最古のものは仁徳天皇の時代の記録がありますが、その後も、天皇や公家、将軍や大名などが鷹狩の中心でした。
その中でも、徳川家康は鷹狩りが大好きでした。
下の駿府城にある家康の銅像も鷹狩りをしている姿です。
その生涯で1千回以上の鷹狩りを行ったと言われています。
家康は、幼少の頃から、鷹が好きだったそうです。
家康公伝には、家康が、尾張で人質でいた時代に、鷹狩りを行い、しばしば孕石(はらみいし)主水という武士の屋敷の森に鷹がとまり、孕石主水が苦情をいったという話や、今川氏の人質になっていた時に、百舌鳥を鷹のように飼いならそうとして鳥居忠吉を廊下から突き落としたという話など、鷹狩りに関する話がしばしば出ています。
鷹狩りの効用について家康は「およそ鷹狩りは遊娯の為のみにあらず、遠く郊外に出て、下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし、筋骨労働し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、おのづから病などおこることなし」といっています。
鷹狩りは、娯楽だけでなく、民衆生活の視察、士風刷新、健康増進を図るうえで大きな利点があることを述べています。
鷹狩りは軍事訓練と機能したり、地方に鷹を求めにいく鷹匠は情報収集もその職務に加えられていたと云います。このように鷹狩りは個人的な側面だけでなく政治軍事面でも大きな役割を果たしていました。
家康の鷹狩りは、日帰りのもの、一ヶ月にわたるもの、さらに永いものでは三ヶ月にわたるものまでありました。
その場所も、居城周辺から遠隔地に遠征するものまで様々でした。
5カ国領有時代には、浜松城下、三河国吉良、尾張国田原、遠江国中泉などだったようです。
関ヶ原の戦い以後は、武蔵国岩槻、忍、鴻巣、川越、越谷、大宮、浦和、戸田、葛西、相模中原、上総東金などに出かけることが多かったようです。やはり江戸の周辺で行うようになっています。
家康がなくなったのは、元和2年(1616)4月17日駿府城においてですが、病気が発病したのは、駿府の田中に鷹狩りにいっていた時です。
家康は、死ぬ直前まで鷹狩りを楽しんだことになります。